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昨日は、尊敬する大澤壽人先生の114回目の御誕生日だった。先生の誕生日には、いかなることがあろうともケーキを買って、想いを馳せ先生の作品にいつも以上に真剣に耳を傾けることにしている。昨日は小交響曲、神風協奏曲、交響曲第1番を聴いた。先生の音楽に出逢って20年近くたつが、毎回新鮮に感じる。この感覚はこれからも変わらないのかもしれない。

そして、前々職を辞めて1年が経った日でもあった。去年の8月1日、私は無職になった。そして1年前の8月2日に、前職の採用面接を受け即日採用をもらった。つまり、無職で次も無し という状態は1日だけだったことになる。それはそうとして、その前職も1年経たぬうちに辞めた。それが、先月の話。つまり、今の職について1ヶ月が経ったところである。

こう書いていると、2019年7月から2020年8月を迎えるまでの間、とにかく目まぐるしく自分の身の回りが動き、世の中も動いて、そして金銭も飛んで行った。なんとか貯金も保ってはいるのだけれど、それでも身銭を切っていることに変わりはない。

この期間で、人と別れ、出会い、そしてまた別れて出会いを経験した。生きていると、こんなにも自分以外の存在というものが持つ様々な力に翻弄されるのかと悩ましくもなる。

と、ここまで書いたこととそれほど繋がりはないのだけれど、とにかくここ数週間は心が重い。特に三浦春馬さんが亡くなってからは、毎日自殺のことについて、やはり考えてしまう。どうしても、未遂を重ねてきた自分と既遂した三浦さんとを照らし合わせてしまうのだ。

死ぬときは自分で決める、というのはある意味で潔いし自主自律的でもある。しかしそれが、周囲の人間を悲しませてしまうという問題?をはらんでいるということがある。その問題を考慮することまで乗り越えたとき、自殺を実行できるのだろうけれど自分はまだ臆病でそれができそうにない。

しかし、いざというときは自殺すればいいのだ、と考えるようになってきた。何か嫌な気分になっても、「生きているだけでつらい」のだから、何が起きたって辛いことに変わりはない。
そう思うと、少しだけ心が軽くなった。どうあがいたって、現状が良くなることはない。これが諦念というものなのだろうか。

30歳までは生きてみようと、それでも今は考えている。けれどその先は分からない。30歳というのは区切りが良い気がする。人はいつか死ぬ。自分が意図していない瞬間に死んでしまうことだって大いにありうる。
それならば、切りのよいところで自らを終わらせてしまうのもありかもしれない。そう思うように至った数週間だった。

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