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「挑戦」について再定義してみた

 今回も宣伝からさせて頂きたい(最近こればっか)
 数矢英子さんというクリエイターが配信されている「コミュニケーションRadio」に出演させてもらったのだ。

 私のめっちゃ細い生声を存分に堪能できるので、特殊な癖がある方はぜひ聞いて頂きたい。
 まあ私の声は置いといて、数矢さんの話の引き出し方は本当にお上手だなと素直に思う。出演させて頂くので全ての回を聞かせてもらったのだが、なんでも演劇をガチでやってたそうで。だからラジオとか、抵抗なくチャレンジできるのかな。

 やっぱり思うのだ。結局は何でもチャレンジしたもの勝ちなんじゃないかって。
 
私だって世間の風潮には敏感な方だ。今の世の中は
「そのままでいいんだよ♥」
「自分をそれ以上責めないで◆」
「今のままの自分が一番ステキなんだよ♣」⇐もう語尾がヒソカみたいになってるやん
・・みたいなモンゴル相撲の油よりヌルっヌルなヌルい事言ってた方が世間受けするし、記事としても伸びる事はわかってる。だが‥すまん、言わせてくれ!

んな訳ねえだろ(ニーチェ)⇐偉人のせいにすんなww

 あーあ、これでこの記事はいつもの半分以下のビュー数確定だ。
 ただよーく考えてほしい。耳障りのいい現状肯定クリエイター達は、本当になんの努力も挑戦もせずに、その立ち位置にいるのだろうか。なんの実績もなく取り敢えず「そのままでええねん」抜かしてるような無名のブロガーは、本当に幸せなのだろうか。

 私は体育会系でもなんでもない。どちらかというと損得をほぼ無意識で悟ってしまう損得勘定の鬼だ。そんな私から見て現状維持を肯定しすぎてしまうのは、あまりにも悪手なのだ。
 少なくとも50年の人生において、そのスタンスで幸せそうに生きている人物をただの一人も見たことがない。

 基本的には挑戦する数を増やしたほうが良い人生を送れる。
 これは根性論とかではなく、どう考えてもその結論にしか至らないのだ。とはいえ、昨今の流れに逆らってまで「挑戦だ!」「やればできる×10」みたいなセンスのない話はしたくない。

 だから根性論ではなく、「未知の世界を選択することが確率論的に正しい」事をパチンコで稼いでる経験から、ある程度説明できるので、その辺を語ってみよう。
 あと思うんだよね。「挑戦」って言葉がだめなんじゃないか?「いどみたたかう」って、サイヤ人じゃないんだから(笑)
 そこで今日のお品書きはこんな感じ

  • 精神論を完全に排除して、挑戦の価値の高さを語ってみよう

  • 挑戦という言葉の再定義

今回はそんな話をだらだらしていきたいと思う。


モンティ・ホール問題

 って聞いたことある?
 これはアメリカのモンティって人がやってるクイズ番組から発生した、確率のジレンマの話である。

 こんな感じで、要は1/3の正解を当てるだけの話なんだけど、扉を選んだあとに、ご丁寧に司会者が不正解の扉を一つ開けてくれる訳だ。
 そして残り2つの扉になった状態で、「本当~にその扉でいいの?ファイナルアンサー?」と煽ってくるのだ。

 この問題、正解は

挑戦者は扉を変えたほうがよい。扉を変えない場合、正解の確率は1/3であるが、扉を変えれば正解の確率は2/3​ になるからである。

になるんだけど、殆どの人が

3番が終わった時点で残った扉は二つであり、扉を変えても変えなくても正解の確率は1/2であるので扉を変えることによるメリットはない。

と思ってしまうらしい。⇐「らしい」っておまえもそう思ってただろww
この問題のからくりは「扉を100個にする」と非常にわかりやすい。

モンティ・ホール問題(扉100個ver)

  1. 100個のドアがある。一つは正解。残りは全部不正解。

  2. 挑戦者は100個の中から一つ扉を選ぶ。

  3. 司会者は残り99個の扉の中で不正解の扉を98個選んで開ける。

  4. 挑戦者は残り二つの扉の中から好きな方を選べる。このとき扉を変えるべきか?変えないべきか?

 いかがだろうか。先述した3つの扉の問題と同じことをやってるだけなのだが、これだったら扉を変えたほうが正解の確率が高いってわかるでしょ。先程色で括った部分を、もう一度書き直そう。

挑戦者は扉を変えたほうがよい。扉を変えない場合、正解の確率は1/100であるが、扉を変えれば正解の確率は99/100になるからである。


確率には誰も抗えない

 これを冒頭の挑戦の話に置き換えてみよう。
 司会者が上述3番で不正解の扉を開ける行為が、人生で言う所の「失敗の経験」だ。だから沢山経験を積んだほうがいいというのは、昔から言われている話だ。
 でも今この瞬間に似たような選択肢があって、どっちが正解かわからない場合でも、精神論抜きにして現状の環境や考え方から「移動」した方が正解の確率は上がるのだ。モンティ・ホール問題はその事を教えてくれる。
 勿論移動して裏目に出る事もあるのだろうが、恐らくそれは失敗経験の拡大解釈だ。嫌な事ほど印象に残るもの。

 パチンコで稼いでる私からすると、確率の法則は絶対だ。いつか必ず確率のとおりに収束する。少なくともパチンコでこの法則をフル活用して、がっつり稼げてる。

 現状を変える事に極度に抵抗を感じてしまう人は、自分の性格とか精神論とか一旦置いといて、「挑戦=単純な確率論の積み重ね」程度でチャレンジしてみてはいかがだろう。そうすれば声優と結婚する事だって夢ではないかもしれないぞ。扉1万個に司会者が1個だけ扉を開けてくれるようなもんだが(笑)⇐おまえは扉100万個だけどな


挑戦を再定義する

 さて、後半は打って変わって精神論だ。いやそうでもないか。
 私は一応過去の仕事で、60人超の部下を持った事がある。その経験上断言できるのだが、やっぱりムチじゃ人は動かないのだ。ムチで動くのは報酬があった場合のみ。報酬を保証できない昨今、管理職は如何に部下をなだめすかしてコントロールするかが重要だと思うのだ。

 若しくは成果とか完全に無視して、ひたすら社内政治に命をかける手もある。まあ国のリーダーや内閣は殆どそっちだけどね。あと前職の幹部も

 別におだててなだめすかすのは、決して情けない行為ではない。凄まじい忍耐力と咄嗟に出てくるユーモア力、そしてちっぽけなプライドを守る為にキレてしまいそうな自分と戦う勇気‥本当に沢山の研鑽と葛藤が必要なのだ。
 そこでいま一度考えてみよう。

皆さんは自分の事をちゃんとなだめすかしているだろうか?

 もしかして、自分の身体の事を100%自分の所有物だとか思っていないだろうか。そんな訳はないのだ。そうだったら田代まさしは薬物大好きおじさんにならないし(笑)、アイドルマスターの作曲家はわいせつ事件で人生詰んだりしない。そして精神を病む人だって存在しないはずなのだ。

 自分のものだと思ってる身体に無茶な命令したり、本当は輝きたいのに「お前なんかにできるわけねえだろ」と抑え込んでるから、身体が拒否反応を起こすのだ。

 そう考えると、今の風潮は自分をなだめ過ぎなんだろうね。でも決して褒めてもやらない。「お前は何もできないんだからじっとしとけ」って本音を「そのままの自分でいいんだよ」って言い直して‥

 心の底から「そのままでいい」と思ってる人は、そもそもSNSなんてやらないって(笑)。キツい事言ってたら本当に申し訳ないのだが、承認欲求強めの僧侶みたいなもんだ。
「私は悟りを開きました‥あ、ここ映える。超映える。TikTok撮ろうっと」
 みたいな。
「母親が叱ってる最中に電話きたときのあるある」⇐しかもまさかのネタ系!?

 ここで「挑戦の再定義」に戻ろう。
 確率的にも、人は環境の変化に挑まなければならない。だから挑戦は必須なのだが「いどみたたかう」だけでは人は病んでしまう。
 だから「いどみ(そして)ほめる」みたいな感覚で未知の世界に挑めば良いと思うのだ。

 て事で、今日から「挑戦」は「挑褒(ちょうほう)」って熟語に変更する事を許可します。wikiに書いてこよ⇐ただの荒らしじゃねえか!


最後に

 以前にも書いた気がするが、意識とはドライバーで、身体とはトラックなのだ。トラックの性能は千差万別でとんでもない加速力を持ってる人もいれば(その代わりにブレーキが効かない)、凄い積載量を運べるトラックもある(でも瞬間的に行動できない)。

 結局我々は遺伝と環境である程度決まっている自分のトラックを、上手におだててすかして‥時には酷使して、身体が本当に納得するステージまで走り続けるしかないのだ。
 挑戦は決して無鉄砲な頭が筋肉野郎だけの特権ではない。上手に乗りこなせば誰でもできるし、そうした方が間違いなく人生がイージーモードになる。
 心から今の自分に満足している人以外は、本当は輝き認められたがってる自分にも、時にはエサを与えてあげてほしい。


 

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