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分母をどうするか。

あの人いまこんな状況かな、いやそれともこうかな、とか考えることが普段からたくさんあって。
気づけば年齢を重ねるごとに考えることの分母が増え続けてる。

あの人のことと、この人のことと、あと自分のことと、、となって
「いつの間にか考えてることたくさん!」となっている。
分母のうち本当に大切で必要なものを分子に上げていかなきゃいけないよなって思いながらも抗えない時間に翻弄されてる。
これはきっと有意義な時間を意識する上で大事なことなんだけど、私は毎日そんなものと戦っているように思う。

昔は小さい分母のなかで生きてた。
関心のあるものや考えるべきものは数えきれるほどしかなくて、それが世界のすべてだった。
けど、生活するなかで分母が増え続けることに焦り、それを抱えきれるほど自分は熟してないのよという気持ちでいっぱいになることがあった。

昔に比べるとあまりクヨクヨしなくなった方ではあるけれど、思わなくすることはやっぱりいまでも難しい。
でも「もうこんな自分嫌だ」とかそこまで切実なものではなくなったかな。
いつからか、もう‘’血‘’なんだと思ったよね。
そういう血が流れてて、ずっとそれと共に生きていくんだろうなと。

でも受け入れたって感じではない。いつも心の中で受け入れたくねーなと思ってる。
全身に行き渡る血に抵抗してる。
もっと清らかで楽な血であれ!と思ってる。

理屈では分かっている。
本当に大切なものってそんなにたくさんはなくて、その大切なものを見定めてそれらに注力すればいいってこと。

でも無駄と言われているようなものや寄り道が好きな私にとって、大切なものをすくい上げた網目から真の大切がこぼれ落ちる日がきてしまわないかとたまに不安になる。
人から見て大切ってことを大切にしちゃいがちだから、わたしは。

分母とか分子とか書いてたら思い出したけど、
ジブリの『おもひでぽろぽろ』に出てくるシーンで、主人公のタエ子が
「分数の割り算がすんなりできた子はその後の人生もすんなりいく」
みたいなニュアンスのこと言ってたな。

小学校で習う分数の割り算。テストの点数がひどかったせいでお母さんとお姉ちゃんにどうしてできないの?とタエ子は叱られる。
分母と分子をひっくり返して掛ければすんなり答えを導き出せるのに、自分の理屈であれこれ考えてしまうタエ子は腑に落ちない。

算数が苦手だと言っていた友だちはとてもいい点数を取っていた。
先生の言う通り素直に分母と分子をひっくり返せたから。

その子はその素直さで育ち、いまでは素敵な大人の女性になっている。と、大人になったタエ子が話すのだ。

私の場合、算数が苦手だったからこそ、分数の割り算において抵抗なくひっくり返せた人間ではあるけれど、その他の事柄においては理屈は分かっていても腑に落ちないというものはたくさんあった。

だから、タエ子がそうやって自分が納得できるまでの材料が揃うまで行動に移せないという心境は少し分かる。

✳︎

これでもここ数年は割と分母の数を減らそうと意識していた。
余計なことに時間を割きたくないし、心をすり減らしたくない。
過剰なインプットを減らして、シンプルな生活を心がけていたように思う。

でも話が逆行するようだけど、今年に限っては、分母の数を最大限に増やしていけたらと思っている。
減らすんじゃんくて、増やす。

それは単純に‘’考えること‘’というより、
‘’考えたいこと‘’とか‘’感じたいこと‘’で構成された分母。

心身の健康に気を配るのは忘れちゃいけないけど、フットワークは軽めでいきたい。
可能性の芽を自分で摘まないようにしたいし、保守的で小さくまとまりがちな性格を飛び越えたい。
え、そんな人だったの、意外。みたいなリアクションを歓迎できる自分でありたい。

自分のキャラやらしさって、自身が大切にしたい成分と、そうでもない成分から出来てると思う。
そうでもない成分とは、おさらばしていく所存。
分母にも入れてやらん。

✳︎

なぜそんなことを思ったのかというと、理由は恥ずかしいくらい単純で、ただ今年の私の運勢が割と良さそうだった、というだけのはなし。

先日家族が珍しく占いの本を買ってきていて、思わず自分の星も調べてしまった。
ほうほう、悪くない。というか割と良い…!
ということが判明して今年の方針を何となく決めたのです。
内容は、「いろんなことに挑戦した方が◎!」と書いてあった。

まぁこんな文言は占いの中では頻度高めだし誰にでも当てはまるのでは?なんて思わなくもないんだけど、嬉しかったので素直になる。
これ見てなかったら私はたぶん分母を限りなく減らそうとしてたはず。

占いのいいところって
「あなたこんな年ですから何やってもうまくいきます」
みたいな無責任さだよね。
いや結局はその流れも自分次第とは言われているけれど。

さっきの話しからすれば根拠はどこにもないのになぜ?と思われるかもしれないけど、占いに関してはもう理論の土俵から降りてるところからのスタートなので私のなかでは問題ない。
半分信じて、半分信じてないからこそ、私にとっては楽だし、平和だ。

理屈よりもそんな言葉の方に背中を押されることって多い。
なにも事情を知らないおばあちゃんからあんたこの先大丈夫だからって言ってもらっているような気持ち。
大丈夫じゃなくても責めようとは思わない。

こんなことを心がけると楽になれます。とか
心を軽くするにはこんな工夫が必要です。とか
そんな作法をあれこれインプットするより、いまの私には一番効いたので、密かに分母に加えることにした。

ああ、いつにもましてくだらないこと考えたし書いたなぁ。
でも分母にするに足ることだよなぁ。
結局今年も足るを知らない自分ってことか、いい意味で。




ここまで読んでいただいたこと、とても嬉しく思います。