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甘くて苦い暇な時間。

暇だなぁ。と最近感じたのはいつだろう?
うーむ、、と考えてみると、今年3月に行ったキャンプでかなと振り返る。
暇と言ってもネガティブなものじゃなくて、時間の流れが心地よく感じられた一日だった。まだキャンプデビューして間もないので、周りのいろんなテントを観察しながら過ごすのも楽しい。
春といえどそのときは結構肌寒かった。

テントを張って火を起こしたら、夜ご飯の準備にとりかかるまで時間がある。そして食べ終わったあとも時間がある。暇だ。どうやって過ごそう。
…そっか、何もしなくていいんだ。

ふと見渡すと、少し離れた場所で男性のソロキャンパーが軍幕を張って焚き火を起こしていた。

ちなみに軍幕ってのはこんなやつ。フォルムがカッコイイ。

傍らには荷物を括り付けたバイクが置いてあって、いかにも無骨な男のソロキャンって感じでカッコイイなぁと眺めていた。
彼は今夜の暇をどう過ごすのだろう?
なんてぼんやり考えながら。

✳︎

例えば楽しさや充実感のなかにいるとき、何となくSNSでシェアしたくなったりするんだけど、それをも忘れるときがある。いまめちゃくちゃ楽しいんだけど、これ伝わらないんだろうなって無意識に感じてるんだと思う。映えが欠けてるんだよね、全体的に私の生活には。

暇ってのは何だか厄介で、ありがたくもありときには焦燥感に駆られるときもある。時間の使い方がいつまで経っても上手になれない。ただ、使い方と言ってもそれが有効的であったり効率的であれば良いとかそういう話でもなくて、結局は自分の内面の問題なんだろう。個人的には時間を「使う」っていう表現もなんだかしっくりこない。使うってより「埋める」って感じじゃない?

明確な暇を感じたのはキャンプと書いたけど、たぶん日常生活の中でも暇は発生している。それが暇という無意味なものと認識したくないだけで、いろいろなモノやコトで満たした充実感という魔法でうやむやになっているのだ。
忙しいっていうのはためらいなく言えるけど、暇って言うのはなんだか周りの反応を気にしてしまう。話のネタにならないからかな。自分のターンだったら即会話終了しちゃうもんね。

だからといって充実感満載のスケジュールを人から聞いているとき、それがその人にとって「楽しい」とか「豊か」であるとかに直結しているかと言われると、それも違う気がする。その人がどう思ったか、感じたかというのがそこからすっぽり抜け落ちている場合はとくにそうで、スケジュールよりさ、あなた自身のことはどうなんだい?と聞きたくなったり。

かといってその一瞬一瞬の気持ちを述べられたところでこちら側は上手く受け取れるだろうか。そもそも日常会話のフォーマットに組み込まれてないからなぁ。でもこんなシチュエーションはきっと自分にも沢山あって、何かを雄弁に語っているときこそ自分自身がそこにいない、みたいなのありそう。

今なんでこんなことを考えているのかというと、本に影響されたからです。
最近ネットや店頭でよく見かける本なので気になって買ってみた。

難しいところもあったけど、面白かった。
まずポイントとして「暇≠退屈」であること。
暇は客観的なもの、退屈は主観的な状態のことをいう。

過去を振り返ると
暇ではあったけど退屈ではなかった。
逆に、暇ではなかったけど退屈だった。
なんてシチュエーションがある。

この本を読むと、その何とも言えない、微妙なんだけど決定的に違う何かを紐解くヒントに出会えた気がした。時間に対する身の置き方が少し整理された。

読みごたえはあったけど、なかなかに難しい部分もあったのでメモ。

◆どうやって楽しさや快楽を得られるか。でなく、どのようにそれらを求めることができるようになるか、が問題である。

◆ラッセルの説いた「何事にも熱意を持て」の問題点。外から与えられた高尚な課題であっても、やはりそれは「気晴らし」に変わりないのではないか?

◆人類は定住化によって退屈を回避する必要に迫られるようになった?

◆消費と浪費の違い
消費には限界がなく延々と繰り返されるのに満足がもたらされない。浪費は受け取れるものに限界があり、満足が得られるもの。消費とは観念や意味を消費しているのであって受け取る物は記号に過ぎない。
例)モデル「チェンジした」という観念の消費、「個性」という観念の消費

◆疎外(何か違うぞと感じること)という言葉には人間の持つ「本来性」をイメージさせる。しかし本来の姿などそもそも定義できるのか?本来性なき疎外という概念を記憶せよ。

◆「暇ではないが退屈している」の謎。気晴らしと退屈が絡み合っていて説明が難しい。しかし私たちの生活において実はもっとも身近な退屈である。

◆退屈と向き合うとは、傷と向き合うこと
世界を生きるとき、人はさまざまな刺激を受けながらそれを自身に慣れさせるための対応を取る。しかし自身の予測モデルを大きく超える出来事や裏切りの体験によって心に傷を負う(トラウマと言っても良い)。退屈を晴らすために苦境に身を置いたり、熱中するものを絶えず求めるのは、そんな記憶による傷跡の参照に歯止めをかけるからではないか。

✳︎

哲学者って面白いなぁと思う。
脳内で絶えずいろんな思考を巡らせて出した結論が、現代では隙があったり矛盾をはらんでいたりする。そこをついて批判する哲学者が現れると、また新しい思想や概念が生まれる。
みんながそれぞれ正しいですよ、という相対的な結論に甘んじていたら、きっとここまで発展しなかっただろう。疑うことの大切さを体現している人たち。
「いやそれは違う!」という個々人で生まれる違和感は、いつだって人を奮い立たせるもんだ。

自分がいま関心を持っているのは消費か?それとも浪費か?まずは自身に問いかけたい。
退屈と向き合い、楽しむことを訓練しながらその過程をも大切にできればいいなと思う。
人は本来こういうもの、と決めつけず、抗えない運命という視点からも物事を照らしてみる。
自分なりの理解を深めていくために、時間をかけて暇と向き合おう。

そのために、こうやってnoteを書いてみたり。


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