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読書感想「ティファニーで朝食を」/カポーティ

彼女は立っているために、僕の腕をぎゅっと握っていなくてはならなかった。「ああ、神様。私たちはお互いのものだったのよ。あの猫は私のものだった」



作家志望の青年は、同じアパートに住む新人女優、ホリー・ゴライトリーと知り合う。社交界で浮名を流すホリーは天真爛漫で気まぐれ。そんな彼女に振り回されつつも、青年は次第に魅了されていく。

「ティファニーで朝食を」を読み始めてすぐに、「あれ?なんだかこの話読んだことがあるぞ」と思った。
それは、古今東西の『自由奔放な女に振り回されるやや没個性な男』の図式に対してなのか、村上春樹の訳文に対してなのかはわからない。でも、とても「懐かしい」と思いながら、読み進めた。
そうするうちに、今度はなんとも言えない安心感、幸福感を覚えた。あたたかいお湯の中にいるような幸せな気持ち。何だろう?なぜ私はこの本を読みながら、こんな気持ちになってしまうのだろう?

突拍子もない言動を繰り返すホリーだけれど、彼女は常に愛と自分の居場所を探している。そして彼女自身が、失ってしまった美しい何か、二度と戻れない懐かしい場所(村上春樹はあとがきでそれをイノセンスと表現していた)の象徴なのだと思う。
私は別にホリーのように奔放に生きてきたわけではないけれど、それでも若いころはどこにいても「ここは自分の居場所ではない」と感じて、常に満たされない気持ちでいた気がする。「ティファニーで朝食を」を読んで感じた懐かしさは、そんな過去の自分を思い出したからかもしれない。


「ティファニーで朝食を」には、表題作以外にも三遍の短編が収録されていて、そのどれもが「もう失ってしまった美しい何か」を主題としている気がする。
そういったテーマを目にすることはよくあることなのだけれど、カポーティの文章は本当にキラキラと輝いていて、切なさだけではない何かを与えてくれる。
その何かが、おそらく私を幸福感に浸らせてくれたのだと思う。

カポーティの小説を読むのは、今回が初めてだけれど、「冷血」は前に読んだことがあった。
村上春樹は、あとがきで、カポーティの非小説「冷血」の素晴らしさを書いたうえで、カポーティの作家としての本領は、やはり小説の世界にある、と書いている。
確かに、「冷血」は衝撃的な作品ではあったけれど、「ティファニーで朝食を」にあった、特別な輝きのようなものは感じなかった。(もちろん「冷血」は素晴らしい作品ですが)

この抽象的にしか表現できない、カポーティの文章の美しさ、輝きはいったい何なんだろう。
それを知るためにも、もっとカポーティの小説をたくさん読んでみたい。
そう、強く思った。

ところで、私は映画版は観ていない。読んでいくうちに「オードリー・ヘップバーンはホリーのイメージと真逆じゃないか…?」と思ったのですが、原作と映画版は全く別物だそうですね。映画のイメージを先につけておかなくて良かったなあと思う。とはいえ、原作とどのくらい違うのか気になるので映画も観てみたい。


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