男女平等パンチがバズる訳

男女平等パンチとは


 男女平等パンチとは、最近出てきた「女に対して殴り返す動画」の総称である。そもそも喧嘩動画というのはSNSでバズるのだが、男女平等パンチは特にバズる。そこには様々な思惑が述べられるが、私も私見を述べていきたい。

暴力への恐怖

 そもそも、男女平等パンチとは、暴力である。女から男へ暴力をふるっている、という形であるが、波紋として広がっているのは「男から女への暴力」である。これは女が原始的に持つ「力が強い者からの暴力」の恐怖を引き起こすのである。
 そして、暴力とは恐怖を生む。誰だって殴られるのは嫌である。どんな動物だって、痛いのは嫌がる。人間も持っている恐怖の本能だ。恐怖を受けた動物は、人間も含めて二つの行動しかとれない。戦うか逃げるか反射と呼ばれ、逃げるか、突っ込むかしかできないのだ。これは、生存のために動物が獲得した本能であり、これにあらがう人間はほとんど存在しないと言っていいだろう。恐怖を感じにくい人間はサイコパス、と呼ばれ、ほとんど存在しないのだ。
 そうして生まれた恐怖は波紋となって、世の中に広がる。「どんなに痛いんだろう」どれほど怖かったのだろう。そういうホラー映画を見るかのような、怖いもの見たさが、逆に人を引き付けてしまうのだ。例えば、悪い噂の方がよく広がる、というように、人間は悪い情報の方を積極的に仕入れてしまう癖がある。バズる波紋は恐怖の広がりなのだ。

治安と安定を手に入れた先進国

 しかしながら、我々現代人は、長い戦争の歴史を得て、安全な都市や街を手に入れたはずである。であるのになぜ、再び暴力の恐怖におびえなくてはいけないのか、と思うかもしれない。
 大抵の先進国では警察に電話すると、警察が来て暴漢を逮捕してくれるし、国家単位で運営される警察、軍隊が国の安全を守っているのではずである。
 であるのに、なぜ、人間はこうも暴力に引き付けられてしまうのか。

忘れ去られた野生と暴力

 人間の歴史、特に男性の歴史は戦いの歴史であった。人間もかつては野山で獣と戦い、狩り。また、女や土地をめぐって、人間同士で戦っていた生き物なのである。
 戦いとは、苦痛と報酬の連続である。戦いのために鍛錬し、強くなり、戦いで報酬を得れば、それを得てまた強くなる。そのような暴力の連鎖が、男や人間を強くしていた。
 そうして、強くなった人は権勢を得る。女に限らず、様々な人を従わせることが出来た。現代でも一部ではそのような風習は残っているが、これこそ「男らしさ」であり、「マチズモ」であった。
 この力による権勢に人は従い、暮らしてきたのである。

鬱屈する男性

 しかし、現代になって、暴力組織は非常に組織化、公的になり、暴力は国家が管理するものとなった。その国家も、世界単位で連合化され、共通ルールによって、世界共通の運用がされつつある。
 そして、自由主義によって、統一された世界連合が、公的資源と化した暴力装置を使いこなし始めたのだ。
 この点において、暴力は一般市民とかなりかけ離れた存在となったのだ。
 そして、大多数の男性は暴力の輪から解放された。そして、言い方を変えれば、はじき出されたのだ。
 暴力によって強くなってきた男性という生き物にとってこれは苦痛かもしれない(私はそうでもないが)今でも、筋トレで苦痛を得れば成功を得られる。男性の本能は決して悪い形で働いてる訳ではない。しかし、「強制的に暴力行為に参加させられ、強制的に強くなっていた時代」ではなくなった。強くなれない男性は鬱屈し始めたのだ。

自由を謳歌する女性

 それと対照的に、現代のリベラル的価値観の広がりから、女性は家制度から解放された。女性は職業を持ち、経済的自由を手に入れた。様々な消費を楽しむ女性の裏では、確かに鬱屈した男性が出てき始めたのである。

現代になって甦る野生

 そして、うらみつらみを抱えた男性を「憎悪」を持ち、暴力を見たがるのである。私が思うに「憎悪」とは人を強力に動かすエネルギーである。かっこ悪いので、現代ではあまりよく思われないが、憎悪こそ、法や秩序すら破壊し、自分のために、生涯にわたって行動を起こさせる、最強のモチベーションである。様々な時期に受けた、憎悪の在り方こそ、人の生き方を決めると言っても過言ではないと思っている。
 そのうえで鬱屈した男性は、女性に対する憎悪を抱えた。
 その「憎悪」が女性に対する暴力を見て快感を得させる。女性に対する暴力に走らせるのである。

国家という暴力

 そして、暴力を受けるからには、誰かに助けを呼ばなければならない。例えば警察や「男の人」などである。
 しかしながら、その警察や男の人も、個人の暴力を武器や組織の暴力で抑える訳で、ここに大きな矛盾がある。悪い暴力を止めるためには、よい暴力を使うしかないのである。
 個人の暴漢を止めるには、組織の警察が。街の警察の不正を止めるためには、国の警察機構が、国家権力がとめなければならない。ここに暴漢を止めるために、暴力的マトリョーシカ構造になっており、暴力の秩序が存在するのである。
 そして、残念なことに人間が戦いを始めて以降、この暴力によって保たれる、恐怖を軸にしたヒエラルキーによって、人間の社会が秩序立てられているのであり、男女平等パンチは、都市化した人間が忘れていた、この「暴力の歴史に支配されている人間」の本当の姿をありありと映してしまうのである。
 このように、男女平等パンチは、その恐怖により「暴力という秩序で暮らす人間の野生の姿」を映してしまうが故に、波紋を広げてしまうのだ。
 人間が本来持っていた、都市化した「よい市民」が忘れていた、野生としての人間そのものを映してしまう。それはある種、セックスを公衆の面前で示す羞恥心と似ている。野生の下等だと思っていたものが、私たちの正体であることを、私たちの理性は認めることが出来ないのだ。

暴力の廃絶への道

それでは、この暴力による秩序を破壊する方法はないのか?
 おそらく存在しない。ボノボというチンパンジーはセックスによって暴力を回避するが、人間はボノボのみならず、様々な類人猿の特徴を祖先から受け継いでいるのだ。
 長きにわたる人間の暴力の歴史、そして、暴力によって強くなる、という恐るべき獣である人間の本来の姿。これを否定するのは不可能である、というのが私の結論であり、
 人間に希望を持つには、この本来の姿を理解したうえで、秩序の中で暮らすように教育するしかない、と思う

追記、男女分断について

 これを論じると多分かなり長くなるし、恐らく私ではうまく論じれないので、論じないが、
 この男女平等パンチの間に「男女分断をあおるインフルエンサー」が相当混じっている気がする。
 恐らく、正義っぽい主張の裏に男が憎い、女が憎い、というフォロワーが多数いるのではないか、という憶測が立っている。ちゃんと論じようとすると私にはできないが、そーいう気もする



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