見出し画像

小豆色の寂寥(6)

「最後にもうひとつ教えてもらえないか」
 一度言葉を切って、
「今、きみには悩みがあるだろう」

 意表を突かれる。

「それは……」

 はっとする。コウさんの瞳の中にやさしさを見た。

「本を閉じられている間はなにも見えないわ。でも、さっきちらりと言ったが、音も空気も聞こえるの。きみの鞄の中で運ばれている間、聞こえていたのは、淀んだ沼に下水がぽたぽた落ちるような重苦しい音だった」

 無意識に、机の上に積み上げてある問題集に目がいく。志望校に合格するために、努力している、はずなのに。成績は上がらない。大学合格なんて無理なのではないか。甘くない現実。

「さすがに、文学的な表現ですね」

 ごまかしたくて、おどけてみせる。コウさんの腕、ぎしりぎしりと絵が動く。

「知りたいから尋ねたいという今までにない欲もあるが、……無理に訊き出そうとまでしなくていいか」

 

ふいと見やれば、窓の外の空が、藍と小豆色に混じり合っている。

 

「幕引きさせてもらう前に、亜芽あめにお願いがある」

 唐突なおしまいを告げられ、慌ててしまう。

 こちらになにを言う隙も与えず、コウさんは小豆色の壁に背を預け、つまさきに顔を向けた。すなわち、もともと描かれていた姿勢に戻ったのだ。

「もしかし老人の墓があるなら、そのそばにこの本を置いておいてくれないだろうか」

 首肯した。

「分かりました」

「それから、亜芽。きみに感謝という言葉を。読んでみてくれないかしら。第三章の二百七十頁の、三行目から」

 それきり絵は動かず言葉も聞こえず、私は夏の夜風を頬に感じた。

「絵が動いて、本の中のひととしゃべるなんて……感情移入の延長じゃったんかな」

 独りごちた。それでも、最後に聞いた頁を開いてみた。

    *

 第三章。二百七十頁の三行目以降。

『罪深き人間、コウよ、と小豆を詰めた袋を受け取り、修道女は私に言うのだ。「はじまりはどんなものにも絶対にあるものです。けれども、終わりは、あるものとないものがあります。終わっていくものもあれば、故意に終わらせるものもあります」と。「自分で決めてもいいものなの」と問い返した私の迷いを打ち消すように、修道女は微笑む。「勿論そういった物事もありますよ、コウ。もういいと終わらせたいもの、終わらせたくないもの、どんな人間も持っています。あなたの決める、この道の終わりとはなんですか」』


もしも、もしも、もしも、わたくしめの物語であなたの心が動いたら、サポート頂けるとうれしいです. いただいたサポートは、より深くより大きな作品(完結作品)を紙媒体で出版するために使わせていただきます.