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この外見だったからこそ

私は黒人のパートナーとかれこれ10年以上結婚生活を続けている。ふとした時に思うのだ。もし私が私でなければ、私は黒人のパートナーを選んだだろうか、と。私は彼の性格に惹かれ、結婚した。そのことに一点の嘘はない。しかし、黒人のパートナーを選ぶという心理的背景がなければその結果には至らなかったであろう。生まれてからずっと田舎町で育ったが、大方の人は同じ日本人と交際し、結婚している。黒人が周りに全くいない環境に育ったにも関わらず、なぜ黒人である彼を生涯の伴侶として選んだのだろうか。

好きになった人がたまたま○○人でした。嘘はない。たまたま出会ってたまたま恋をし、熱烈に引き合い、結婚した。だが、そのような結論に達するには私は深層心理には何かあると思っている。というのも私自身がそうだからだ。出会ったときにはわからなかったが、今ならわかる。

これは外見的なことを抜きに話すことは不可能である。人が人に魅力を感じるのに外見的な魅力抜きには語れない。特に男女のことに関しては。内面が大事だなんて百も承知である。が、ここは私の自分語りをしようではないか。

私は幼いころから、外見を貶めるような言葉に溢れて育ってきた。デブ、肥満、ブサイク、目が小さい、鼻が低い、顔が丸い。寝ても覚めても四方八方からこのような言葉に漬物のように漬け込まれて育ってきた。家族、先生、友達、親戚、近所の人、ありとあらゆるひとから丹念にこの言葉を刷り込まれ、物心ついた時には、デブ、肥満、ブサイク、目が小さい、鼻が低い、顔が丸い、という特徴を持った人間が自分であると一点の疑いもなく信じていた。もちろんこの特徴が人から羨ましがられるものではないことは痛いほどに分かっている。このことは私の心に常に影を落としていた。繊細な思春期の乙女に対し投げかけられる侮辱的な言葉。傷つかないわけがない。しかし、私は当時、こういった侮辱的な言葉に立ち向かう強さを持たず、その環境・状況を許してきた。侮辱的な言葉を投げかける大人や同級生に嚙みつかず、傷ついていないふり、怒っていないふりをして、道化と化していた。歯向かわず、戦いを放棄した。従順で周りに波風立てるのを恐れその侮辱を迎合していたのだ。その結果、幼い頃から自己蔑視が強く、大人になっても生きていること自体が本当につらかった。それは自分の外見が自己蔑視の直接の原因であると最初は思っていたのだが、それは間接的な結果である。もっと直接的な原因は、その侮辱に対し己の怒りや傷つきを表現せず、自らの内側にしまい込み、その怒りを自分自信に向けていたからである。本来牙を剥くべきは周りの大人、侮蔑的な扱いをしてくる相手であった。なのに私は自分自身に牙を剥き、噛み付いた。その結果、私の自己認識は歪んだ不健康なものとなり、自己否定といい眼鏡なしに世界を見られなくなってしまった。自己否定と自己蔑視は常に軽んじられることを許し、自信はなく、生きていて申し訳ないような気持が常にしていた。

この外見の特徴を指摘され、貶められ、笑われ、いつそのことを嘲笑されるかわからなかったので私はいつも周りが怖かった。敵に見えていた。私は外見が美しい部類に入らなかったため、男性に全くモテなかった。見事にモテなかった。ここまでモテない女はいないのではないかというくらいモテなかった。その逆らい難い自然の摂理に基づく厳しい事実に加え、蓄積された自己蔑視が加わり、益々私はモテから遠ざかって行った。ビルゲイツと相撲を取るということぐらいモテることは私には縁のないことであった。どうせ私なんて誰からも愛されることはないのだ、と中二病的マインドは20代まで続いた。

27歳ごろに友達のパーティに招待された。それは人生のターニングポイントであったと言える。そこには多くの外国人がおり、色々な人種が入り混じっていた。その中になんとも熱烈な視線を送ってくるものがいるではないか。しかも男だ。男に見られる、肯定的で前向きな視線で見られるということに全く免疫がないため、今までに体感したことのない居心地の悪さが毒蛇の如く胃の底からとぐろを巻いて湧き上がってくる。その男は黒人だ。今までみたことのない黒人、しかも男が私を凝視している。私の歪んだ認知は、この男は私の醜態を笑おうとして見ているに違いない、もしくは私のことをこそこそとほかの人と嘲笑しているに違いない。警戒しろ、と信号を送ってくる。しまいには、何見てんだこの野郎?喧嘩すんのか?え?と怒りすら覚え、何か言ってきたら一言言ってやろうと心のナイフを粛々と磨く。男が近づいてくる。来た、身構える。私は防御態勢に入る。

ハーイ、僕はXXと言うんだ。君の名前は?とっても素敵な女の子がいるから一言挨拶したくて。

なんとお褒め頂いているではないか。私は戸惑う。オロロロロロ、アわわわわわ。素敵だと?女の子だと?お前、どこ見て言ってんだ?人生で1度たりとも己を形容するのに使用されたことのない言葉に必要以上に右往左往した。散々鎧を着、剣を振りかざして構えていたのに、子犬のような瞳で無邪気にじゃれ合ってくるではないか、この男は。私は振り上げた剣を下すことができず、剣士の如く不必要に冷たく突き放すように己の名を告げた。心の中では初めてのお褒めの言葉にパタリロが狂喜乱舞しているのに。そのダサすぎる内面の矛盾を悟られまいと、鉄仮面をかぶり、その男に冷たく接した。私の英語力では話はいまいち盛り上がらず会話は終わった。

この体験は私に衝撃を与えた。己の根幹を揺るがすような衝撃であった。こんな非モテの私でも素敵などという最上級のお言葉を頂戴するようなことがあるなどと誰が想像できただろうか。彼の最終的な魂胆は何であれ、このことは私の中でゆるぎない成功体験として心に刻み込まれたのである。我、黒人に、モテる。刻み込んだ。己の心に見えない彫刻刀で彫り込んだ。単純極まりない。チョロさ極まりない。それでもこの体験は傷つきぼろ雑巾のようにくたびれていた自尊心にブースターショットをお見舞いしてくれた。その刻まれた文字は、音になり、意志を持ち、私を立ち上がらせた。今まで抑えつけてきた非モテゆえの若き乙女の承認欲求はこの胸に刻んだ銘に駆り立てられた。そして私はこの時はっきりと自分のマーケットは黒人であると悟ったのである。これまで全く日本人男性にモテなかった。私は恋愛しようとも、このまま日本で私を好んでくれる人を探しても針の穴に糸を通すが如く困難なことであり、それならば生きるための活路を求め、自分を需要のある市場に広告宣伝をうち、販売戦略を立てたほうが恋愛というテーマに於いて成功と幸福を得られるのではないかとひらめき、その方向で行こうではないかと契約書を結んだのである。

これが私が黒人をパートナーとして選んだ心理的背景の一つである。

もう一つ重要な点がある。私は無意識に自分の外見の劣勢を補ってくれる人を探していたのではないかと思う。デブ、肥満、ブサイク、目が小さい、鼻が低い、顔が丸い。運動神経が悪い。未来に生まれる我が子に己の持つコンプレックスを軽減してくれるパートナーでないといけないという本能からの危機意識が黒人の男性を求めたのではないだろうか。事実私のパートナーは体脂肪率は8%程度、鼻が高く、顔はコカ・コーラの缶ほどの小ささで彫刻のように立体的である。この浅はかな己の自己欠陥を補うという深層心理によって私は黒人の男性を生涯の伴侶として求めたと思う。

このことは今まで己のおこがましいプライドから明言するのを避けてきた。私は日本人にもモテたんだけどね、といい女風をたなびかせていた。痛々しい女である。しかし、まぎれのない事実は、私は日本人基準でブサイクで、日本人男性に全くと言っていいほど需要がなかった。モテなかった。その事実を認めるには勇気がいる。しかしこの事実を避けずに私は今の自分を受け入れることはできない。また、この本当はモテないのに、そうではないように装うという下らないプライドで自己保身に走っていたら、今、私はどこに流れついていただろうか。私は、あのパーティの日、自己を受け入れた。モテない、ブスである。その事実ををごまかさず、流れ落ちる激しい滝に打たれるかの如く頭頂部からその事実の激流を受け止め、その上で自分が幸せになるには何をすべきかを考えた。そしてくすぶっていた自己を奮い立たせ、自らを磨き、自ら生存の活路を開いたことに一点の嘘はない。プライドもかなぐり捨て、私は愛を求めていたのだ。ブスであろうが、デブであろうが、我は愛を手にする。己の契約書を履行すべくとにかく恥を捨てて行動した。

求めよ、されば与えられん。

その結果、素晴らしい黒人のパートナーと出会い、これ以上ないほど幸福に暮らしている。そういった意味で、ブサイクでデブに生まれたことも、日本人男性に非モテであったことも、私が今の私になるために、そして今のこの上ない幸せにたどり着くために、すべて必要な条件や設定であったと思うのだ。私は滑稽な思考回路をしているので、パートナー選びにこのような背景があったのだが、みなさんはどうだろうか。人は隠された無意識に反応する。私が強烈に黒人に惹かれたのは己の中に内包された隠された無意識に反応しての結果だと言えるのではないだろうか。私がもし世間一般にモテる外見をしていたらきっと私は今とは違う場所にいるだろう。私は今、目の前にある、手の中にある黒人のパートナーとの幸福を見つめる。私はしみじみ思う。ブサイクでデブに生まれたことすらも私にとってはギフトであったのだと。





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