「イノセンス」的世界における知の存在の仕方について


昨日の事だが

或る状況や場面を名著の引用を通してズバリ形容するというような知的営みはネット検索がうまいだけの人間には到底不可能。実体としての知を蓄積してきた者だけに許された営為である云々

といったような言説を目にして、そうそう全き正論でござるよ、とか思いつつも一方で押井守の映画「イノセンス」(2004)におけるバトーとトグサの引用合戦を想起してそう簡単に言えない部分もあるかもしれない、と考えに更けってしまった。

「イノセンス」の中では全編を通して、こいつらは公安じゃなくて文学研究者なのでは?と思わせるほど引用が多用される。そのワンシーンをまさに「引用」しておこう。

(政治的な空白地帯であったが為に多国籍企業やアングラ組織の巣窟と成り果てた択捉経済特区を前にして)
バトー「”個体が作り上げたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現型”(注:リチャード・ドーキンス)だ、って言葉を思い出すな」
トグサ「それってビーバーのダムやクモの巣の話だろう?」
バトー「サンゴ虫の作り出すサンゴ礁といって欲しいな。まぁ、それほど美しかねえが。生命の本質が遺伝子を介して伝播する情報だとするなら、社会や文化もまた膨大な記憶システムに他ならないし、都市は巨大な外部記憶装置ってわけだ。」
トグサ「”その思念の総計(かず)はいかに多きかな。我これを数えんとすれどもその数は沙(すな)よりも多し”」
バトー「旧約聖書、詩篇の139節か。とっさにそんな言葉を検索するようじゃ、お前の外部記憶装置の表現形もちっと偏向してるな。」

ご存知の通り映画「イノセンス」は漫画「攻殻機動隊」(士郎正宗/1991)原作、映画「GHOST IN THE SHELL」(1995)の続編である。「電脳」、あえて現代風に言い換えるならば「IoB(Internet of brain)」が普及した近未来が舞台のフィクションである(あまりにも有名な作品群なのでこれ以上の説明は不要であろう)。

先に挙げた言説に対して、なぜ私がこの映画のこのシーンを想起したかというと、次の2つの問題提起が主要因である。

1.仮に脳がネットに直結した時代が来るとして、そういった時代において果たしてネット検索は実体的な知ではないと言い切れるのか

2.現代は未だ脳とネットは間接的にしか接続していないが、ある一面において我々は既にイノセンス的世界の中に在ると言えるのではないか

まずは1つめの問題提起から。
まず先述のシーンをどう見るかであるが、世界設定的に見て少なくともトグサが脳内におけるネット検索を自覚的に駆使してバトーとのコミュニケーションを成立させている事はまず間違いない。対してバトーのセリフに現れる知見は「生の脳に蓄積された情報」であるのか、はたまた「脳内ネット検索によって外部記憶装置にアクセスし、即応的に取り出した情報」であるのか。トグサとの対比を通して素直に読めば前者なのだが、個人的にはどうも府に落ちない。「あらゆることに詳しすぎる」という違和感がある。では後者かというと、バトーというキャラクター的位置や攻殻機動隊という作品群、とりわけイノセンスという作品の主題から考えて、むしろ前者と後者の境界が曖昧になっているのがバトーという人間なのではないかと解釈したい。要するに、トグサと比較して電子戦のプロであるバトーの脳内ネット検索は「記憶を取り出す」こととほとんど同じ所作であり、脳とネットが「ほぼ」一体化している(ちなみに「完全に」一体化した存在が草薙素子である)為、バトーにとっては脳内に蓄積された実体知とネット上のインスタントな知を自覚的に区別する必要がない、と考えるのは存外不自然な考察でもないように思う。

さて、半ば妄想だと思われるかもしれないが私の「バトー観」を一旦認めて頂くとして、そのような「バトー」的人間が現実化した場合、その人間にとってはネット検索によって或る状況や場面を名著の引用を通してズバリ形容することは容易であるだけに止まらず、もはやネット検索によって「一旦借りてきた」知識と、生の脳に蓄積されてきた知識との区別をつける意識さえない、ということになる。

2つめの問題提起に移る。
引用した最後のセリフを見てみる。「外部記憶装置の表現形が偏向している」状態とはどのような状態を指すか。トグサの脳内ネット検索は意識的か無意識的かはともかく当人の、或いは他人の趣味趣向思想その他によって一定の志向性を与えられており、それが検索結果に個性を与える、という説明でどうだろう。この説明で十分であるとするならば、それはもはや現代のネット検索となんら変わりないのではないか。GoogleのAIがあなたやわたしの潜在的な傾向を察知して、或いは世の中のトレンドを察知してお望みの検索結果に導いてくれるではないですか。

また、「フルコピペのレポートで教授とコミュニケーション(課題提出)を図ろうとする大学生」という「トグサ」的人間が既に存在する以上、「バトー」的人間の現れを予見することはそれほど先走った感覚だとは思わない。大体本や実体験によって得た知識の価値とネットの情報の価値を事実上区別していない言説を今でも既に山ほど目にするし、そのような言説に十分な存在価値が与えられてしまう場が少なからずあるではないですか(もちろん自己反省を含んでいます)。

2つの問題提起を通して考えられそうなことは、本で読んだような実体知とネット上の即応知を区別しない精神性はもはや現代人の中にかなりの濃度で内面化していて、これからその傾向はより強まるだろうということ。さらに、区別されずに一体化していく知のうち少なくともネット由来の領域は、客体(例えばGoogleのAI)によって知らず知らずのうちにバイアスがかけられている可能性をいつまでも否定できないということ。

換言すれば「主体的で対話的な深い学び」を通して得られたと自覚している知識や技能は、主体性を発揮するという段階で既に客体によって恣意的に操作されているかもしれないという疑念と共に抱き合わせられるしか、その存在を認める方法がないかもしれないのである。

急に飛躍した感があるが、「主体的で対話的な深い学び」とは現在奨励されている教育改革の一大キーワードである。そしてそれを為すために今急速に(そしてかなりお粗末に)普及しているのがICT教育ツール、かなり乱暴にいえばインターネットの積極利用である。

誤解されては困るのはインターネットの教育利用に消極的であるべきということではなく、むしろ積極的に奨励されて然るべきであるし、そもそも致命的に遅すぎると思っているぐらいである。

ただし、教育改革コンテンツに止まらず、教育現場でも盛んに宣われる「主体性」という言葉に対しては批判的な姿勢でいる必要があると感じる。少なくとも「自ら進んで対象に向かう」という意味でしか使われていない「主体性」という言葉は、現在以後の人間社会では挨拶にしかならない。

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