「君たちはどう生きるか」*前半ネタバレなし、後半ネタバレあり

ハヤオ原理主義者のワタクシ、さっそく見てきました。面白かったです。
広報を全くしない、というのは鈴木敏夫の長年のカンというか気まぐれというか、ハヤオ御大は不安だったみたいですが、その割に少なくとも公開3日後で某大手シネコンの真昼間の回はほぼ満員で、ジブリもまだまだいけるなという印象。一週間後の興収が気になるところですね。少しずつ割れてきてますが終わってみれば声優のラインナップも豪華というかジブリにしかできないラインナップで、これで広告打たなかったというのが信じられない。ここまで大胆な戦略が打てるのはハヤオと鈴木敏夫のコンビぐらいでしょうね。

しばらくネタバレなしで書きます。

さて広告を打たなかった、という点も含めて、この作品から感じた印象は、いつものハヤオ、「子供のためのアニメ映画」でした。宮崎駿は常に具体的な子供を想定して映画作りをしているというのは本人も言っている通りですが、前作「風立ちぬ」で、初めて好き勝手映画を作ってしまった。その後(何度目かの)引退宣言をしたわけですが、今作は風立ちぬへの反省というか後悔というか、自責の念というか、これでは終われないという念を邪推しました。

「風立ちぬ」はアーティストとしてファウストに魂を売る映画悪魔に魂を売る映画(ファウストには売らない、7/18修正)でした。ワシはそういう風に生きてきたよ。アーティストってそういうもんじゃないの。そしてひこうき雲の歌詞、「ほかの人には分からない」、です。おまえらに分かってたまるかと。千と千尋のドキュメンタリーで「例えばものを食べるシーンなんかにも世界の秘密が隠されてる、だから真剣に向き合って描くんだ。世界を変えるつもりで描くんだ、どうせ変わりゃしないんだけど」と熱心に若手に教える翁が連想されます。アートとはそういうものだよと。

ある意味自分の思想を真っ向からぶつけた「風立ちぬ」、しかもおまえらには分からんよ、とまで言い放つエゴイスティックなまでの信念に固められた「風立ちぬ」は、宮崎駿にとって集大成といってもいい作品だったと思います。しかし、これは僕の邪推なんですが、宮崎駿のアンビバレントな性格からして、これを作って数年後、後悔したんじゃないかと思うんですね。こどもの為のアニメを、自分のエゴの発露として使ってしまった。これでは終われない、と。

どうせ宮崎駿のことですから、昨今のアニメ作品、細田にしろ新海にしろ、観ないといいながらある程度観てるはずなんです。でブツクサ文句垂れてるはずなんです。そして最近のアニメ作品に対して宮崎翁が一番文句を言いたそうなことを邪推するならそれはおそらく、アニメの消費者がオトナばっかりになってしまったこと。作り手も明らかにオトナを意識した作品作りをし、オトナを意識したマーケティングをしているということ。ある程度以上の芸術性を持ったアニメ映画は作品のテーマも高年齢化していますし、作品の持つイメージや売りも「詩的な(映える)映像」「キャラクター」が第一であることが多いでしょう。こういった最近のアニメ映画の風潮も手伝って、こどもの為の映画をもう一度作る、という使命感をこの作品からとても感じました。

*ここでいうオトナとは高校生以上のこと


さて、ここからネタバレ。とにかく全く情報が表に出てないので冒頭からネタバレになるのがこの作品。誰も見てない記事ですが、迷い込んだあなた、ジブリの思惑通り作品に触れたい人は読まないように。

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そういった、まあはっきり言えば細田や新海へのアンチテーゼ的な要素としてとにかく「汚いもの」が画面にめちゃくちゃ出てきます。一番みんながオエッってなるのは大量の鳥のフンでしょう。そして魚のはらわた。ジブリのとんでもない画力で描写される鳥のフンまみれの人間と魚のはらわた。トイレのシーンも出てきますね。アイドルだってウンコするんだ!!!という強い意思を感じます。あと最も汚いもの、戦争です。

また、風立ちぬへのアンチテーゼ的な要素として、父=キムタクは、ゼロ戦作ってますね。主人公マヒトはそんな父を尊敬もしながら、軽蔑もしている。母の死因が(おそらく)空襲ですから、戦闘機を作る父は母の死に加担しているともいえるわけです。しかも母を弔ってから日も浅いのに母の妹に手を出してこども孕ませてるのには複雑な感情を隠せません。あげく「転校先に車で乗り付けたらみんなびっくりするぞう!」とか言っちゃう始末。転校初日にこんなことされたらたまったもんじゃありません。

しかしそんな父の立場をうまく利用するずるがしこさ、後に「悪意」と表現されるそれ、も持ち合わせるマヒト。転校初日、(父のせいもあって)無事排斥されるマヒトは、自分を殴ってきたクラスメイトに仕返しをするために父を誘導します。竹と釘で弓をDIYしたりナイフをポケットに忍ばせたりする豪の者であるマヒトくんは、たかがガキ大将のクラスメイトぐらい大した脅威ではないはずでおそらく返り討ちにしたと思いますが、自分の頭を傷つけて重傷を負い、それを見た父は無事マヒトを被害者として学校に財力と権力(=オトナの力)を発揮し始めます。宮崎駿は本当にすごいな、と思うのは、こういう子供、ほんとにいますからね。よく知ってるんでしょうね。

さてそんなマヒトくん、一族の血を引いているせいでアオサギに別世界へ誘われます。どうやら大昔に「本を読みすぎておかしくなったオオオジ様」が神としてデザインする別世界がある様子。後に分かることですが、オオオジ様は自分の血を引くマヒトを、次の神として選んだようです。

森へ入っていくナツコ(継母)を不信に思うが、同時に実母が残した本を見つけたマヒトくん。ナツコを忘れて本に夢中になります。ナツコは冒頭から一生懸命マヒトの母として振る舞おうとしますが、マヒトは拒絶気味。自室に案内し、お茶にしましょうね、と誘ったあと即寝てしまうマヒトを見るナツコの表情は怖かったですね。つわりを見舞いに来たマヒトの顔に触れるナツコ。触れられたマヒトは、はっきりと拒絶の意思を表します。ナツコが失踪するのはそのすぐあと。悪意に満ちた現実が嫌になったのですね。別世界に行ったナツコは迎えに来たマヒトを逆に拒絶してしまいます。

ナツコを探しに行くのか、アオサギが生きているという母を探しに行くのか。どちらにしろマヒトくんは別世界に誘われます。
そして地の底へ「落ちていく」。宮崎駿の世界。落ちて登る話です。

さて地の底にある「石積み」の墓はなんなんでしょうね。そこに祀られているものはなにか。「我を学ぶものは死す」。死す、というのが難しいですね。この先それを学べば死ぬのか、学んだものは既に死んで墓にいるのか。ダブルミーニングだとすれば、両方を満たすのは「母性」でしょうか。

マヒト母(=ヒミ)は既に故人ですが、小さいころに、おそらく悪意に満ちた現実が嫌になったのでしょう、オオオジの世界へ神隠しにあいました。そして火を操るヒミとして「命のモト=ワラワラ」もろともペリカンを焼いています。そのままオオオジの世界で少女として暮らせたものを、自分が未来にマヒトを生み、火事で死ぬことを知りますが、それでもマヒトを生むために現実に戻ることを選びます。それが「1年後戻ってきたヒミ」。
つまり母性を知ってこれから死ぬことを選んだのです。そしてマヒトの時系列ではヒミは既に母性を知って死んでいるのです。

さてアイコニックな描写のわりにそれ以降言及されない支石墓ですが、「石」はこの世界の重要な構成要素のようです。初めてマヒトが別世界への入り口を発見するとき、初めに気づいたのは落ち葉に隠れた石畳の通路でした。また、オオオジの世界では「石」が「意思」を持っていることがわかってきます。石の産屋では、石に拒絶された結果囚われてしまいます。そもそもオオオジが世界をデザインするときに使うアイテムも「石」。オオオジに力を与えたのも隕「石」でした。この物語では「石」にどのような意味を与えているのでしょうね。

そういえばマヒトくんは、オオオジが積んでいる石を「悪意ある石」と呼んでいました。その後オオオジがマヒトを後継者として指名するときに、悪意のない、純粋な石を授けようとします。しかしそれを見てマヒトは、自分には悪意があり、その自分が純粋な石に触れると悪意に染まる、として受け取りを拒否します。

ここからわかるのは、石はもとは悪意に染まっておらず、悪意のある人の手によって悪意ある石になる。悪意ある石を積むことによって構成された世界は悪意のある世界となってしまうということです。
実際に、(昔はユートピアだった?)オオオジの世界は、今やインコ軍団によって支配される世界となっていました。オオオジは本(=どうやらイソップ物語などといったお話が主)に狂ってこの世界を構築したころは純粋で無垢な心の持ち主であったけれども、年と共に悪意に芽生えてしまったようですね。それでマヒトを呼んだのでしょう。

ところでワラワラの下りではっきりすることですが、このオオオジのデザインした別世界は、現実世界にも少なからず影響を及ぼすようです。だとすれば、現実を戦争に導いたのは(故意ではなくとも)オオオジである可能性もあります。オオオジは世界をよくしようとしたけれども、芽生えた悪意で石を染めてしまい、結局現実世界に戦争をもたらしてしまった。だから次は、悪意を見極められるマヒトに、世界を刷新させ次のユートピアを作る。

しかしマヒトは石の受け取りを拒否します。ここではっきりとわかりやすいメッセージが。「ユートピアの神となるよりも、(戦争をはじめとする)悪意ある世界で友達を作って生きていきます(いきなさい)」
こんな説教臭いことを説教臭くなく言えるのは世界広しといえども宮崎駿ぐらいでしょう。

ラピュタよろしく汚いオトナ=インコ大王の暴走によってエセ・ユートピアが崩れ去り、マヒトはナツコをつれて現実世界に戻ります。この時一緒に飛び出てくるインコ軍団のフンまみれになるナツコ。しかしナツコは一言、可愛いといいます。

「石」と同様に重要な概念として何度も描写される「鳥」。
「鳥」といえばヒッチコックですが、集団で襲ってくる鳥の不気味さみたいなものも確かに表現されていたように思います。「鳥」に仮託されているものとはなんなのでしょうか。おそらく御大の大嫌いな「大衆」でしょう。自由に飛べる翼をもちながら、集団で一方向を目指して盲目に飛び続ける鳥。戦争に向かう日本人だけでなく、現在に至るまでの大衆性を鳥で表現していると考えるのは野暮でしょうか。

しかしそんな大衆=鳥を可愛いというナツコ。悪意のある世界、これは間違いなく宮崎ジジイの現実分析でしょうが、その悪意ある世界をアニメの力で変えようとした御大。オオオジ様=宮崎駿ということでしょうか。
しかし風立ちぬの10年前からジジイなのにもっとジジイになってしまった宮崎駿に突き付けられたのは、変わらないどころかもっと悪意に染まる現実。少なくとも宮崎駿にはそう見えているに違いない。現実が、「お前は失敗した」と告げているわけです。
だからこそ宮崎はこどもたちに伝えたいのでしょう。悪意に満ちた世界を変えようとしたけど、私はアプローチを失敗した。
だからアプローチを変えよう。悪意に満ちた世界だけど、友達を作ることはできる。世界を変えようとするよりも、まずはそこから始めよう、と。こんなに分かりやすいこども向けアニメは、昨今なかなか見当たらないでしょう。

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