小説・鯨の悲しみが止まらない(第1章)

第1章

鯨族の大会議
 
 海中に満ち溢れている鯨の会話を注意深く聴き取れば、我々の生き方がどんなに平和と友愛を大切にしているかお判り頂けよう。
 そんな鯨社会にとって、集会を開くのは前代未聞のことだった。何しろ、七つの海に群居するいろいろな鯨の代表、オス三十頭が恐ろしい捕鯨船、小うるさい観光船、空腹なカモメ、獰猛なシャチ、鮫、カジキマグロらに感づかれないよう、わざわざ海の難所を選んで密議したのだから、本当に骨の折れる行事であった。
 代表たちは、それぞれの仲間うちで一番の物知りであったが、どんな考えの持ち主なのか、発音もさまざまで、会議がうまく運ぶかどうか心配であった。しかし、われわれに重くのしかかる海洋環境の悪化を思えば一刻の遅れも許されない。
 海の生きとし生ける者すべての健康に配慮するなら、考え方の違いや言葉の壁を乗り越えて断固立ち上がらなければならぬ。鯨のみんなが理解できる音波を出して、代表会議を呼びかけたのは私である。
 鯨界で起こった数多くの困難な事態に体を張って立ち向かったことで、いささか存在を知られ、「マク」の愛称で呼ばれるようになったマッコウ鯨の私は、仲良しのメスイルカ「フィン」に、海洋汚染の深刻さと鯨の生き死にを真剣に説かれて、ことの重大さをみんなに訴えたい気になった。
 フィンはとびきりの物知りである。三メートル、二百キロそこそこの身体は知恵の塊と言っても言い過ぎではあるまい。人間界の水族館や軍隊などで生涯のほとんどを費やした祖父「G」の知識をそっくり受け継いだからだ。
 「鯨の心はひとつ」を合言葉に、みんなの気持ちが通じ合うよう会議を取り仕切ったフィンに「さすが知恵者のイルカよ」と、賞賛が集まり、「あんなに人間界の事情に明るいのは何ゆえか」を知りたがったので、フィンになり代わって、私は「G」の波乱に満ちた人間社会とのかかわりを、かいつまんで説明してやった。

 「水槽の名優ともてはやされ、自分もその気で愛敬を振りまいてきたGの夢は、群れ集まり、飛び跳ね、おしゃべりを楽しんだ家族や仲間たちと再会することでした。彼の演技が人間の心を癒し、彼もまた、人間から贈られる喝采の快さに酔った体験を通して、人と鯨の平和なあり方を伝えたかったというのです。この願いが、まさかと思う形で実現したから、聡明なフィンは祖父の知識を受け継ぐことができた。まさかの出来事についてはいずれ機会をみてお話しするとして、さあ、会議の本題に入りましょう」
 議事の進行を促したけれども、Gはどうなった、最後まで話せとみんながうるさい。Gに対する興味の高まりが、会議の成功につながると直感した私は、話の続きに入った。
 「Gが見せる高等な知力と素早い行動力に下を巻いた人間界の『戦争屋』たちは、イルカを人間同士の水中戦に活用しようと、ばかばかしい思いつきを実行に移す。Gを含めて五十頭のイルカ部隊が編成された。隊員らは軍事教練のひとつひとつを習い覚えていくたびに、相手を打ち負かすのに手段を選ばない戦争屋の歪んだ性根を知り、反感を募らせたが、気象の観察、時刻の認識、武器、道具の見分け方、命令、指示の受け止め方といった軍事教練は面白がって覚えたといいます」
 出席者から驚きの声が上がった。
 「世界中の水族館から買い集めた優秀なイルカだけのことはあると、すっかり満足した戦争屋は、彼らの用語で言う閲兵式を行い、高官に教練の成果を見せようとした。ところが、お偉方を乗せた快速艇が出現したとたん、整然と行進していた部隊はそろって反対方向に逃げ出した。突然の敵に対して群れを護ろうと瞬時に団結するイルカの癖が出て、大脱走の引き金となったのであります。」
 シンとしていた会場がどよめいた。

「戦争を飯の種にする面々が怒り狂ったのはもちろんですよね。でも、自分らの失敗が笑いの種になりかねないので、軍事機密を漏らしたという理屈をつけて、脱走兵の皆殺しを思い立った。イルカ兵の体内に埋め込んだ小さい音波受発信機を操作して逃亡者を捜し出し、彼らをかくまったイルカ集団ともども爆殺した。その数は数万頭にのぼったと言われますが、Gも含めて生き残ったわずかばかりのイルカは、いずれも後遺症の苦しみに耐えながら、戦争屋のむごたらしい行いを訴え続けたそうです」

私はすっかり黙りこくったみんなを励まし、長い話をこう締めくくった。「喜劇に始まり悲劇に終わったイルカ部隊の話が、大会議に役立てば、イルカ座に眠る犠牲者の魂を鎮めることになりましょう。鯨だけでなく海洋生物全体の存亡に関わる海の汚染は、イルカの爆殺とは比較にならない、もっと深刻な問題であり、真剣な議論を期待します」

ワシ 「イルカの能力の素晴らしさがよくわかった。その賢さを悪用するとは、なんとも腹黒い人間の浅知恵だな」

 海のことは第海洋の隅々まで回遊する我々鯨が一番よく知っている。その海がかなり前から変だと気づいている鯨仲間は多い。しかし、真の原因を知るほど情報に明るいものはいない。だから、汚染が体調の不具合に深く関わっていることを知るにつれて、不安は爆発的に高まり、フィンの難しい説明を理解しようと全員が懸命になった。

「私の説明はすべて祖父Gに教わったものです。それ以上のことは賢明なみなさんの想像のお任せします。さて、人間は自分の暮らしを便利にするため、いろいろ工夫します。そのための化学物質なるものを数え切れないほど創り出したが、そのうちのいくつかは海に溶け込んでわれわれに悪さをします。もっとも厄介なのは強い毒を持ち、たやすく体内に入り込み、長い間住み続けるPCBやDDT、あるいはセシウムといった化け物だと言います。みなさん、わかりますか?」

聴き手の緊張が高まった。

「危険だと知ってさすがに人間たちも創るのをやめたり、厳重に管理しているが、すでに広がった毒の量はたいへんなもので、今も、そしてこれからも悪事を働らくということです」

シロナガス、ホッキョク、セミ、ザトウなど、ヒゲ鯨の面々に向かってフィンは言った。

「みなさんがヒゲで濾し取って食べる好物のオキアミは、小魚たちにとっても大切な餌ですが、毒を食べた小魚は小型の魚に食べられ、小型は中型の魚に、中型は大型の魚にというぐあいに、そして、最終的には鯨の餌食になる。こいう順に食べるにつれて、体内の毒はどんどん濃くなっていく。鯨の脂肪には毒がたっぷり、恐ろしいことですね」

これを聞いた全員が悲鳴を上げ、騒然となったので、は歯鯨代表として私、マクが発言した。

「フィンの指摘で気づいたのだが、下顎が大きくゆがんでしまい、餌を獲ることも食べることも出来ずに死んだ、私の親しいマッコウ仲間も毒の犠牲者なのだ。不自由な体つきの魚や、不自然な泳ぎ方の鯨は意外なほど多いですよ。みなさん」

 興奮したみんなが思い思いに声を上げ始めたので、私は制止して順番を決めた。シロナガスが三十メートル、百三十トンもの巨体をいくらか折り曲げて不安そうに発言した。

「我輩は少々の毒に参るような弱い体ではないと思うが、それにしても毒まみれのオキアミとは気持ちが悪いな。棚氷がドンドン溶け出しているが、あれも毒のせいだろうか」

厳寒の海域を餌場にしているホッキョクがヒゲの密生した口を大きく開けて怒鳴った。

「同感だ。こちらでも大氷床が二つに割れて海に流れ出し、餌場が変わってしまったぞ。毒に関係があるのか、ないのか知りたいもんだ」

さらにゴンドウの報告は、全員の気持ちを暗くした。

「母子取り混ぜて百頭あまりのコビレゴンドウが穏やかな湾内で漁師たちと漁獲をめぐるいさかいも起さず、それはそれは愛情に包まれた暮らしをしていたが、どうしたわけか、子どもが相次いで死んでいく。母たちのすすり泣く声に島民たちは耳を塞いだ。母と子の結びつきが特に強いコビレは生まれて五年経っても乳離れしないから死別の悲しみは深い。そのうち、母親自体の体調もおかしくなり、さっき言った通りの愁嘆場となった」

「悪魔の正体はなんだね、フィン」

集中した質問をさばくのにフィンは往生した。

「祖父のGは言っていましたよ。海に捨ててはいけないものを平気で捨てる人間が多いので、どの悪魔かを言い当てるのは無理だ。もっとも、そのうち海を埋め尽くす勢いのプラスティックは、目に見えるから、まだ対処しやすいいがね、と。棚氷や氷床の崩れが、どんな毒に関係しているかどうかというお尋ねには、残念ですが、答えられません。でも、この頃、海中が妙に暖かく感じませんか。軍隊で気象のことを聞き覚えた祖父Gが言っていましたよ、海に限らず空にも毒が広がって気温は上がり、氷河も溶け出す。そのうちイルカも山登りができるようになるかもね、とね」

「やっぱり毒のせいじゃないか」
 ホッキョクが変なところで力んだので、発言順番ではないが、と私が割り込んだ。
 「みなさんの目に触れない恐怖の種は、まだありますよ。マッコウだけが潜れる深い深い海の底に、得体のしれない怪獣が転がっている。正体を探るために音波を浴びせても何だかわからない。聴覚を研ぎ澄まして先方の出方をうかがっているうちに、Gの体験談を思い出したのです」
 Gは、軍隊にいた時、造船所に連れて行かれたことがある。人間の出入りは厳重だが、イルカなら秘密にすることもあるまいと見たのか、それとも、イルカの活用を考えていたのか、Gらの出入りに制限はない。彼らは以前からそこに巨大なマッコウがいると思っていたが、戦争屋の説明で、使い古しの原子力潜水艦であることを知った。この廃艦を深海に沈めるのだと言う。
 原子力の殺傷能力は、イルカ集団を皆殺しにした爆弾の比ではない。陸上でうかつに処理できないので深海に捨てると言うわけだ。陸地の生物には好都合でも海中の生物には不都合ではないか。Gはそう思ったと言うのである。
 「もうお分かりになったでしょう。海底に横たわっていた大怪獣は原子力潜水艦でした」

 ワシ 「宇宙も放射性物質の墓場だ。ゴミとなってうろつく人工衛星の増え方に驚く。人間同士の戦争だけは宇宙に持ち込まないよう願いたいものだ。人間の愚かさは、宇宙の広さに劣らず、限りがないからな」

                              (続く)


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