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自然音に対して情緒を感じるのは何故か〜虫の音を言葉として聴く日本人

グランドデザインの大崎です。今回は日本人特有の感覚性についての記事です。(「日本人とリズム感 拍をめぐる日本文化論」著 樋口桂子を読み、大切だと感じた部分、デザインと重なる部分を私の視点で記事にしました。詳細はこの本をご覧ください。)

ここで一つ質問です。『犬はなんと鳴きますか?』

ときかれて大体の日本人は「ワン」とこたえますよね?他にも、猫はニャー、鶏はコケコッコーと表現しますね。ですが、海外ではそれらの声を模倣する際に、実際の動物の音を再現した言語として表現します。たとえば、英語では犬は“bowwow”(バウワウ)、猫はmeow(ミャオ)、mew(ミュー)、ニワトリはcock-a-doodle-doo(カカドゥドゥルドゥ)と。

こう比べてみると、日本語の表現はひとつの音に帰結してしまっています。ある意味、リアルとくらべてデフォルメされています。ですが、ここに日本人特有の感性の秘密がつまっているのではないでしょうか。

雑音として処理せず、情緒に捉える

「日本人の脳」(1978年)の著者、角田忠信によれば、日本人が虫の音を心地よいものとして感じるのはそこに情感、なにか意味のあるもの(言語)を感じ取っているとのことだ。(諸説あります)実際、日本人の脳は西洋人と比べるとかなり異なった構造をしていたりします。西洋人の脳は、虫や鳥、動物のなき吠えを右脳で処理するのに対して、日本人は左脳、心の脳で情動に関係する音として処理しているというのです。

日本人の脳は、自然の音に対して敏感に反応し、滝の音、虫や鳥の鳴き声にも、何かしらの意味をとらえることになります。「シーン」という擬音語は手塚治虫が漫画に取り入れたことで広まったと言われていますが、日本人の音に対する感性から漫画はうまれたという必然性も感じます。(ちなみに『宇宙兄弟』ではシャワーが出る音を「シャワアアアア」、シャツを着る音を「シャツッ」、ズボンを履く音を「ズボンッ」、牛乳を「ギュニュッ、ギュニュッ」と表現したことで有名(?)ですね。)

表層ではなく、内側にある心のあり方を表現する

オノマトペや漫画に共通するのは、実際のリアルな造形や音を表層的にとらえるのではなく、一度理解した後にデフォルメして再解釈し、ある意味誰にでも直感的にそう感じることのできる共感をベースにしているということです。

「サクサク」というオノマトペは、食べ物の形容などによく登場し、適度な歯ごたえの心地よさを伝えるものですが、パソコンの動作にも使われているのは、ソフトウェアがスムーズに動く様に対してだれしもが「サクサク」と感じる共感が訴求され広まったとも言えます。

日本で今当たり前のように通念する概念には、そういった特殊な感性が下地に置かれていると考えると、身の回りのものにある種のノスタルジーを感じませんか?

音そのものではなく”気配”を感じとる

日本人は情景や気配に感じられる音を、人の所作、仕草、人の心の動きに対して感じ取り、それを声で模写しようとしました。音の出ないはずのものにも、日本人は”気配”を感じとる。それそのものではなく、その内側にある心のあり方を捉えようとしているともいえます。

”気配”をコンセプトにした作品の例として、2001年に発表されたアーティストの小川秀明氏を中心に作られた一対のランプ<Twin Lamp>があります。これは、二つの異なる場所を繋ぐランプで、片方のランプの操作でもう片方の操作が連動するランプです。このコミュニケーションの道具は、声や文字そのものではなく、”気配”をやり取りしています。不足しているからこそ、思いやりや気遣いといった人の想像力を補うことができるというのです。

まとめ

時代が移り変わり、意味のイノベーションが起き、いまや電球よりも情緒的なろうそくの方が売れている時代です。皆が憧れるストーリーを提示して演出するのではなく、人それぞれが大切だと思うものにお金を使う時代でもあります。技術はこれからも進歩していきますが、まずは人の心に寄り添うこと。そしてその優しさが普段は気がつかないような繊細さを兼ね備え、結果的に新しい気づきにつながることを本が物語っていました。

参考文献

「日本人とリズム感 白をめぐる日本文化論」|樋口桂子 

「CONTEXT DESIGN」|渡邉康太郎 


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