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才能なき私の平凡な才能

 さいていでも
 いのちさえあれば
 のんびりと
 うたたねできる
詠み人:chiemi

私が絵を描いて見せると、有難いことに多くの方が「才能だね」称賛してくださる。
褒めてくださるのが嬉しい反面、それは私が予期しない称賛であり、もし本当に才能があるならば今頃あちこちの画商やら画廊やらからひっきりなしに依頼がきていただろう。
小さい頃から絵を描くことが好きで、今でも時々描いてはいるが、周りの人より少しだけ描けたという程度で、私はミケランジェロにもダヴィンチにもルノワールにもピカソにもウォーホルにも草間彌生にもなれない。

最近では”才能は生まれつきのものではない”という主張を聞くが、私は世の中に”生まれついての才能”というものはあると信じている。
今読んでいる『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』(高橋昌一郎)に登場するフォン・ノイマン、数学・物理学・化学・コンピュータ科学を齧ったことのある人なら誰でもその名を知っているはずだが、彼は既に子供の頃から数学ができたのである。
神童と言われたモーツァルトもやはり幼少時にその才能を見いだされている。
やはり生まれつき才能をもつ人はいるのだ。

そして私には何の才能もない。
身体が不自由というだけで毎日がサバイバルなのに、神様は特別に秀でたものを私にはくださらなかった。
もし私に才能があれば、3年後の仕事が約束されていたかもしれないし、今日は在廊・明日はパーティーなんていう生活をしていたかもしれないし、私費で介護者を雇って好きな時に好きなところへ行けたかもしれないし、想う人から想われていたかもしれないのに!


嘆いてはみるが、嘆いたところで明日は変わらない。
自分を磨き、人には優しく、想う人の幸せを願い、起きて、食べて、出して、寝る。凡人はそのようにして日々を愛おしく思いながら過ごすしかない。
noteや漫画を毎日投稿しているだけで偉いのだ。
スペイン語の維持に加えてフランス語学習を始めたことだって、新しいアプリや技術を覚えようとしていることだって、どんなに疲れていてもスキンケアを怠らないことだって、立派なことじゃないか。
フォン・ノイマンやピカソはそうやって自分で自分を慰めたり、励ましたことはあるだろうか。


まぁ、いっか。命さえあれば今日もなんとかなる…
そんな楽天的な考えができるのは私の平凡な才能かもしれない。


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