福音。罪の宣告とその赦し。語らなければならない事。その土台。

「あなたは愛されいてる」
神の愛を伝える事が果たして福音たりえるのか。
その言は真実である、いや、しかしそれでは十分ではない。それは万死に値する罪びと、その創造主たる神への背きに対する大いなる赦免。私の「罪の為に十字架で死なれた事」。それは第一に罪びとへの宣告なのである。

まずその人に対して罪状書きが読み上げられ自らの罪の宣告がなされなければならない。赦免とは罪びとに対してなされるものであるからである。この宣告に耳を貸さぬ者は、神の憐れみによる赦免へ進むとは決して出来ない。赦しとは罪ある所に与えられるものだからである。

「罪?確かにいくつか思い当たります。私も完全ではないですから。失敗はありました。」では、その罪の深刻さはどの程度を指しているのか。それは「神の怒り、永遠の裁き、第2の死すなわち燃える火の池」である。この宣言は御言葉によってなされる真実である。

「そんな恐ろしい話は聞きたくないし、古臭い考えだ。私が地獄に相応しい罪びと?」そうやって鼻で笑って見せる人々は先ほど述べたように、福音のもたらす赦免の恵みに進むことは出来ない。もう一度言う。赦しとは罪ある所に与えられるものだからである。

「自分を顧みれば確かに罪悪感は存在するが、しかし自分は聖書が宣言するような罪びとの姿とはほど遠い。”永遠の裁き”に相応しいとは思えない。その宣言には同意できない。」このように述べる者はあまりにも多いのではないか。そしてこれらの者に対して、ある種の信仰者ら(彼らは最早多数派である)はこう考える。

「神の怒り、永遠の裁き、地獄。こういうおどろおどろしい話はするべきではない。福音とはつまり神の愛を伝えているのだから、あなたは愛されていると伝えるなら十分だろうし、今の時代一体どれだけの人々がこの事実を必要としているだろう。さぁ出て行って神の愛を伝えよう。」

このように語る者の多さが一体どのような結果をもたらすのか。私は多くを語るまい。それは教会の現状をみれば既に明らかだからである。罪と悔い改めについて語ることを軽んじる事がもはや歓迎される時代となった。そしてそれを問題視する者も稀である。

「そういう深刻な話は後にして、まず愛ですよ。愛をまず伝えましょうよ。でないと誰も耳を貸しませんよ。いきなり罪だの地獄だの言われても。反発されて終わるだけです。躓きを与えてはならないと聖書でも言っているでしょう。」私はこのように話す者と交わす言葉さえ持たない。激しい憤りさえ覚えている。今朝私にこの筆を執らせたのは、この憤りによる所が大きい。あなたの受けた”はず”である福音についてよく考えなさい。それをあなたが確かに受け、またパウロが警告を発している”異なる福音”の類でなければの話であるが。

私たちは神の恵みの価値を減じる事、目減りさせ伝える事の恐ろしさについてよく注意しなければならない。それは大いなる恵みを施してくださる方に対する非常な侮辱となるからである。神は永遠の滅びに相応しい罪びとに対してご自身の恵みを施されたからである。その恵みの本質とは”罪(罪びと)に対する赦し”である。罪の無い所に赦しは無いし必要とされない。

延べ伝えられるべきその赦しは一体どれ程に価値あるものなのかを知るには、罪の深刻を直視し認めねばならない。これは決して避けてはならない道である。それはなぜか。「神が与えられる赦しの価値を減じることは、すなわち神への侮辱である」からである。「赦しの価値を減じるとはつまり罪の深刻さを軽視する事であり、このどちらもが神への侮辱となる」のだ。

ここで話を少し戻す。私が述べた「多くのクリスチャンが軽視して最早はばからない点」についてここでもう一度心に留める。「神の怒り、裁きや地獄。罪や悔い改め」について現代ではこのように扱われている。

「最早多くの人はそれらに耳を貸さないのだから、神の愛を伝えるならそれで十分だ。聖書がそれを教えている事には反対しない。しかしそれらについてはある程度述べるだけで十分だろう。そのような人気のない話、ましてや躓きを与えかねない話に執着せずに、今必要とされている神の愛と”赦し”について話し、延べ伝るべきだ。」

私はこのような姿勢で語られる”赦し”とは神への侮辱だと理解している。先ほど述べたように、これは明らかに福音のもたらす赦しの価値を減じる姿勢、すなわち罪の深刻さの軽視だからである。罪びとの置かれている位置、状態とその結果を御言葉に求めるなら明らかである。

福音の価値を決して減じてはならない。福音を単なる「神はあなたを愛している」という標語に断じて貶めてはならない。福音が語られる時、その罪の深刻さ、罪びとの置かれた完全な堕落と決定的な滅び、そこに下される大いなる神の怒りと裁きの全てを明らかにしなければならない。

福音のもたら偉大な赦しは、迫りくる大いなる御怒りと永遠の地獄に至る背き、甚だしい堕落と反逆、完全な腐敗という罪過に対して与えらえたのだ。神はこのような状態にある罪びとを憐れまれ、実にその愛する御子をもさえ惜しまずに賜ったのである。
私たちはあの輝かしい十字架の勲を減じることがあってはならない。その愛の尊さを決して軽んじてはならない。

今日クリスチャンから語られる「神の愛と赦し」の土台に果たして「わたしたちの罪のために死なれ・・・」の言は確かに据えられているか、また一見そこに据えられているがその”罪”が意味する所が果たして本当に聖書が述べている通りのものであるか、ただちに吟味せよ。その意味が軽視されていないか、減じられ耳障りのよいものに人手によって加工されていないかを調べよ。

延べ伝えるべき福音がその恵みが減じられた”神への侮辱”であってはならない。

どこかで怒りと共に叫ぶ声が聴こえるかもしれない。
「躓いたらどうするんですか!愛を語るべきです!」
そのような叫びを一蹴せよ。このような頑迷な輩を相手にする必要すらない。
私たちは語らねばならない。決して御言葉と恵み、福音を減じてはならない。
それは真っすぐに罪とその至る最悪について断言しなければならない。
罪びとは自らの罪過への宣告、その最悪の結果についてひれ伏さねばならない!
永遠の滅びという死刑宣告に対して打ち砕かれ、完全に倒れ伏さなければならない!
その意味において人は躓き、倒れ砕かれなければならない。御前に降伏しなければならない。
目の前にもはや何の希望ないという絶望に同意せねばならないのだ。

ーー全ての力を失い、沈黙と共にその魂は暗黒に伏す。

その時、天の御座より厳かな宣言がなされる。

「だがしかし」

ーーあなたはこの御声を聞いたか。
ーーあなたはこの御声を聞いたあの瞬間を記憶しているか。

暗闇と暗雲を引き裂いて差し込む一筋の光。

「だがしかし、私はお前を愛している。今私のもとへ帰れ。福音を信じて救われよ。そして命と光、無限の喜びと祝福に至れ。」

あなたはこの御声に同意した日を決して忘れてはいけない。今日ここに再び魂にこれを刻みつけよ。
罪びとに対する赦しと愛はここにこそ極まる。
「神は実にその独り子さえも惜しまずに与えられた」のである。
それは、罪過とそれがもたらす結果に絶望し暗黒に沈む魂に対する語りかけなのである。

あなたはこの一点に断じて妥協してはならない。


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