どうしようもなく惹かれる小説の中の女性達と、その共通点

吉本ばななの『哀しい予感』
夏目漱石の『三四郎』
江國香織の『落下する夕方』

   上に挙げた三つの小説に共通することは、登場する女性がとんでもなく魅力的だということ。どれもとっても大好きな作品。『哀しい予感』では「私」のおばに、『三四郎』では美禰子に、そして『落下する夕方』では華子に、私は一度読んで夢中になってしまった。

   『哀しい予感』は十九歳の弥生が家出をし、自らの淡い記憶を巡る初夏の物語だ。そこで登場するおばは、高校の音楽の先生で、一人森の奥にひっそりと暮らしている。この人がもう本当に素敵。自由で美しく、でも危うさや弱さも抱えてて、大事なことをすっと見透かすことの出来る人で。この小説はそんなおばの描写から始まるが、もうその冒頭数ページを読むだけで心掴まれてしまう。例えば、大好きな部分の引用。

私はおばが「音楽教師に見えるでしょう、こんなもんで」という、世の中をなめたマニュアルを実行しているとしか思えなかった。なぜなら家の中でねまき同然のラフなかっこうをして、のびのびとしている時、彼女は別人のように垢抜けて美しくなるからだ。_『哀しい予感』より

   後から生徒だった人がその授業について話すところもあるけれどそこも最高だった。この人の変人っぷりといい、薄暗いけど気持ちよく澄んでいるその空気感を文章であんなにも伝えてくるなんて信じられない、と思う。

   『三四郎』は少し雰囲気が違うけど、明治時代の学生があれやこれや考えて悩んで行動して楽しんで、のあの感じがとても好き。主人公三四郎が恋する女性というのが美禰子で、これまたしなやかで素敵。発する言葉も動作も一つ一つが意味深で、でもいやらしくないんだなぁ。好き嫌いは分かれそうだけれど、表にでるのが少ない分、短い一言や微笑みひとつに三四郎だけじゃなく読者も翻弄される。「無意識の偽善者」というのは、まさにその通りだと思う。天性のもの。純文学には細部を丁寧に言葉を尽くして描く、こういう形式的な魅力が十二分に詰まっているよな、と思う。

   『落下する夕方』の華子は…難しいなあ。軽い、しっとり、ふわふわみたいな凡そ人を形容するような単語でないものばかりでてくる。これは主人公梨果の失恋の物語で、そんな華子の周囲にいる人達と、同じ目線で私はこのお話を読んだ。しかし江國香織の小説にでてくる女性は全くクレイジーだ。全然共感出来ない、でも惹かれる。『落下する夕方』は少し特別で、あいだに存在する華子が強烈な印象を頭に残していく。華子は存在感がないようである、チャーミングだが常に寂しそう、ミステリアスといった上手く言葉にできない空気感があって、でも会う人みんな虜にしていってしまうような女性。ラストは結構ショッキングだったけれど、不思議と納得出来るものだった。あとがきで江國さんの言う通り、とても冷静で、あかるく静かな物語だと思う。

   三作品とも読んだことのある人には分かってもらえると思うけど、この三人には、特におばと華子には、何処と無く共通点がある気がする。自由さだったり、関わる人を惹き付ける不思議なパワーを持っていたり、自分の中ではっきりしていることがあってそれを大事にしていたり、そして言葉に適切な重みを含んでいたり。これらの女性は憧れとかでは決してなく、周りにこんな人がいたらな、と私に思わせる。小説を読んで美人だ綺麗だと感じるのは実際不思議なことだけれど、恐らくこんな魅力を描けるのは映画でも漫画でもなく小説だけで、想像力をふくらませられるので楽しい。この三作品はこれからも繰り返し読むだろうし、その度にしみじみ好きだと感じるんだろうなと思う。ヘリオトロープにヘチマコロン、そしてセブンアップ…。








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