辺野古新基地建設に思う

2014年、沖縄では4度にわたって、選挙があり、「民意」を問う機会があった。名護市長選、名護市議選、沖縄県知事選、そして、衆議院議員総選挙。いずれも、新基地建設に反対の候補が勝利している。今年に入って、県知事は、前知事の法的手続きが、適法だったのかを検証する委員会の審査が済むまでの間、工事を中止してほしいと政府に要請までしている。それにもかかわらず、知事が要請した翌日から、台船を使った工事をはじめ、巨大なコンクリートのブロックを海に沈めはじめた。まさに、自然環境の破壊であり、抗議するカヌーに乗る人たちに対する暴行を海上保安官がふるう。強権的な権力行使である。

瀬嵩の浜からみた、フロート。ここから中が、立ち入り禁止区域。

夜の台船の様子。

以前から、工事用ゲートの前には、「殺人鉄板」が敷き詰められ、反対する人たちともみ合いになれば、けが人が出るのは予想されていた。

ここの鉄板の上では負傷者は出ていないものの、機動隊とのもみ合いによって、よろけてしまい、頭を打って救急車で運ばれる人が何人もでている。

今の国会予算委員会のなかで、「民意」に向き合うことなく、政治家の判断が正しいから従え、といって、政治家の判断を押し付けるのは、独裁だと批判する政治家がいた。今の、無力な人たちを前に、圧倒的な数の警官や海上保安官が暴行をふるい、さらに、民間のガードマンをも動員する様子は、かつて、イギリスがインドを植民地支配をふるっているなかで、自分たちのアイデンティティーを取り戻そうと、糸車をとりだすことを呼びかけた、ガンジーの姿ともダブってみえる。

植民地支配を行うとき、支配される側が、自立できないように、自立する手段を奪った。さまざまな基地交付金も、沖縄の人たちの自立する手段を奪うものにほかならない。基地交付金に基づく経済振興とは、まさに、自己決定権をうばう手段に自らの将来を託す、無責任な方策としか思えない。

辺野古の様子は、まさにこうした、支配と従属の構図の象徴なのだが、過疎にあえぎ、原発に依存する人たちも同じだろう。事故がおきたときに、決して、国家は人を守らない。このことは、沖縄戦でも同じだった。私たちは、何度同じ失敗を繰り返せば学習するのだろう。辺野古での出来事は、決して、沖縄だけの問題ではないし、本土の人たちの無関心が問題の構図を構造化する。私たちは、いまほど、おかしなことをおかしいと言わなければ、とんでもない事態に陥ってしまう。問題に共感し、行動をともにおこなってくれた人たちが連帯するための、よい知恵はだせないものだろうか。

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