無から生まれた

 どうも。僕です。あ、えっと、スマです。「僕」は「スマ」です。


 「僕」は「スマ」です。


 2回も言った意味がわからない?でも、今日はそういう話。



 ここでの「僕」は今ディスプレイの前でキーボードを叩いている人間の僕のことである。

 「スマ」という名前は小学4年生くらいの頃にゲーム誌に投稿するために作った名前が元になっている。この名前に落ちつくまでには紆余曲折あったわけだが、そういう細かいことを抜きにすれば10年以上この名前(ほぼ)一筋でやってきた事になる。小・中・高・大とこの名前を(ほぼ)貫いたと考えると感慨深いものがある気もする(今気づいた)。

 この名前は、WiiUでMiiverseをやっていた頃にも散々お世話になった。平たく言うと任天堂のゲームに特化したSNSである。僕が今Twitterで炎上せずに済んでいるのはここで過ごした時代があったからと言ってもやや過言くらいで済むと思うが、それはまた別の話。

 そして中学の終わりくらいからTwitterを始めるのだが、本名と全く関係ない名前を持ったネット上の僕と、現実世界の僕を一致させるのはまあ困難だったと思う。自分から教えた一部の友人を除けば、中学の間にそれ以外の知り合いに見つかるようなことはなかった。今思えば誰も僕に興味がなかっただけかもしれない。でも当時の僕からすればむしろ嬉しいくらいだな。

  高校に入ってしばらくしたあたりで僕のTwitter様式がだんだん今の形に近づいてくるのだが、多分このあたり(高2とか)まではネット上の「スマ」と現実の自分は割とはっきり分かれていた。それでもツイ廃っぷりで言えば学年でも上位を争っていたし、学校でハンネ呼びされることも多々あった。ただ大抵の人は僕の本名をセットで知っているし、その上で僕を指して「スマくん」と言っていたのは単にそっちが呼びやすかっただけだと自分では思っている。



 今は全く状況が違う。



 東京大学にクラスのシステムが存在しなければ、今頃僕のことを本名で呼ぶのは大学の教授だけになっていた可能性すらある。

 サークル活動でハンドルネームを名乗る機会が非常に多い、というか本名を名乗ることが(LINE以外で)ほとんどない。こういう状況になるとどうなるかというと、人々は僕を「スマ」と認識する事になる。



 そんな人々にとって、間違いなく「僕」は「スマ」なのである。



 僕自身は僕がスマであることについては嫌ではない。むしろ10年以上同じ名前を(ほぼ)貫いているのは望んでやっていることだ。

 とはいえ、最初は「僕ではない」ものを表していたこの名前がいつの間にか僕自身の表している。当時の僕はこんなことになるとは思ってなかっただろうな。



 でも、次に僕が僕でないものになりたくなった時はどうしよう?

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