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目に見えないものを信じる事

ある日、カメラロールを眺めていた時にふと、友人たちの後ろ姿の写真をとても多く撮っていることに気がつきました。

最初は無意識状態で撮っていたと思うのだけど、それに気づいた瞬間から後ろ姿を束ねた作品として編集することを決め、今年の3月末に『between the blinks (まばたきの間)』というタイトルのリトルプレスとして初めての手製本で限定発行をしました。

発行したはいいものの、オンラインでの販売ページ開設やzineイベントに出店することなく、あえてあまり作った理由について触れなかったこの本を作る上で掘り下げたことや、タイトルや作品に込めた思いなどについて、改めて書いていこうと思います。

癖のように記録した理由

わたしが高校1年生になった2015年頃、携帯電話=スマートフォンになっていたと言っていいほど、スマートフォンは既に多くの人に普及していました。

それまでの「ガラケー」と呼ばれる携帯電話に内蔵されていたカメラ性能を圧倒的に上回るスマートフォンの内蔵カメラの画質と操作性の良さ、そしてSNSの普及によって、写真を撮り、他者に共有するという行為は、誰にとっても身近で、手軽で、一気に日常的な行為になり、今やわたしたちの生活に欠かせないものとなっています。

けれど、そんな時代が走り始めた真っ只中に引きこもりだった私は、引きこもりが故に人間関係があまりに希薄で、SNSが流行し始めても、一切と言ってもいいほど写真に撮ることや、共有することがないことをどこかコンプレックスに感じていたように思います。

高校を卒業して、社会に一歩踏み出した先で出来た友人たちと「写真撮ろう〜、、、!」と、ぎこちなく声をかけて写真を撮り、それを残していくことは、体験し得なかった青春時代を取り戻すような爽快さと、自分自身の成長と重なるような嬉しさがあり、「コミュニティーマネージャー」なる肩書を仕事にするまでに人と親しくなる事が容易になってさえ、共に時間を過ごした人の写真を撮る無意識的な癖は何年も続いていました。

しかし、ここ数年インターネットとメンタルヘルスの関係性について様々な議論がなされているように、ファッションとしてのY2Kブームや、レコードやカセットテープ、フィルムカメラや2000年代のデジタルカメラやビデオカメラなどのアナログな様式・デバイスのリバイバルといった時代の揺り戻しが起き、TikTokをはじめとするショート動画の、著作権を無視したような音源やミーム、切り抜き映像。

体験の記録として写真を撮るのではなく、誰かに共有する写真や動画を撮影をするために、遊園地や飲食店に足を運ぶ人たちなど、徐々に「『現代的』な現代」への懐疑的な空気感が漂い始める中で、わたし自身にもそれを全否定できない小さな心当たりようなものがあり、どこか居心地の悪さを感じていながらも、インスタント的に写真を撮ることを止める事ができずにいました。

それが故に、場と時間を共有しながら、その場で起きている会話や音、匂いや味、風や光を、今しかない今に五感で感じている、みずみずしい感性を持った友人たちに、何の意味もなくiPhoneのカメラを向ける事がどこか気恥ずかしく思い始めた瞬間があり、いつからかこっそりと後ろ姿として記録するようになったのだと、何十枚にも及ぶ後ろ姿の写真を眺めながら改めて実感し、なんだか恥ずかしく、同時に自分自身のいじらしさに少し切なくなりました。

目に見えないものを信じる事

スマートフォンの普及や、多くの場合「今」を共有するSNSのストーリーズ機能などによって、これまで見えなかったはずのものが、あまりに可視化されている現代で、見えないものを信じたり、心を寄せたりすることは、私にとって時に困難なことのように思えます。

しかし、わたしが友人たちの写真を撮るという手段を通じて、埋められなかった過去の時間や孤独に向き合う心理プロセスや、友人たちの愛しく、頼もしい後ろ姿に、聞こえないようにそっと投げかけた励ましや、感謝の言葉は、『between the blinks(まばたきの間)』というタイトルにもある通り、まばたきの瞬間に見逃した流れ星のように、見えなくても、目にとらえる事が叶わなくても、この世にたしかに存在したもの。

この作品を作り上げた後、iPhoneに溜まっていた30,000枚近くの写真を1000枚にまで減らしました。

仕事を辞め、生活が変わり、使う言葉が変わり、時間への向き合い方が変わり、様々な変化が起きている今の生活の中で、わたしは今、見えないものに心を寄せる日々を過ごしています。

自然と会うことがなくても、側にいなくても、見えない繋がりが確かにあり、見えない心が確かに存在して、生きていて、今この瞬間から過去に溶けていく時間を分かち合ったことが事実としてこれからも進んでいくこと。

改めて、この作品に後ろ姿で登場する多くの友人、仲間たちに改めて大きな感謝と愛を贈ります。(もちろん登場していない人たちにも!)

もしかしたら、わたしの後ろ姿に誰かが投げかけてくれていたかもしれない言葉を、見えずとも感じながら生きていけること。見えないのに確かにあるだなんて、あまりに心強くて嬉しいなあと感じています。

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