あらためまして、はじめまして。

こんにちは。2022年の10月24日。わたしは25歳になりました。

誕生日を迎えるたび、周りの人にあらためて感謝の気持ちを伝えたくなるんですが、正直どう繋がっているかは関係なく、ただ周りにいて、わたしを認識してくれている、わたしをわたしたらしめてくれる、みんながいてこその今日だと毎度毎度、本当思っているんです。

「そんなに喋ったことない」とか「最近一切会ってない」とか、そんなことは関係なくて、本当に本当にみなさんに、ありがとうございます。そう伝えさせてください。本当にありがとう。

ここで突然本題に入りますが、あらためて「はじめまして」をしたいんです。

不躾な言葉をひとつ

「あなたはどなたでしょう?」

「あなたがどなた?」ってなる読者の方ももしかしたらいてくれるのかもしれないんですが、Web上に秒単位で生み出されるさまざまなページの中で、この記事のページでは、書いているのがわたしであることだけが、誰にとっても共通の事実として進んでいく。

だからこそ、こんなクリエイターの端くれの端くれのような存在であるわたしのnoteを読んでくれているあなたが誰なのか、わたしには皆目見当もつかないもので、少し気になるのです。

まあ、こんな問いをしておきながら、あなたが誰であっても、25歳という今日を迎えたわたしは「はじめまして」と言いたい気持ちなので、ちょっとこの話はおいておきましょう。

わたしは、生きる上で大切にしている美学として「潔い」という姿勢をものすごく大切にしているので、まず伝えたい結論からお伝えさせてください。

あらためまして

はじめまして。わたしの名前はgoです。東京都生まれ、東京都育ちの25歳。お仕事はというと、なんかやってることの幅が広く言語化が難しいんですが
肩書きで言うと、コミュニティーマネージャーなるものを生業としています。

ここで、表題に「あらためまして」とつけた理由が続きます。このことについて、あらためてこうしてお話しすることが本当に少なかったからです。

わたしは、トランスジェンダー(※)で、トランスジェンダー女性として社会生活を送っています。つまり、生まれた時に与えられた身体的性別と、性自認/社会的な性別(Gender Identity)が一致していない状態として生きているということになります。

(※)出生時に、身体の観察の結果、医師により割り当てられ、出生証明書や出生届に記入された性別、あるいは続柄が、自身の性同一性またはジェンダー表現と異なる人々を示す総称。

Wikipediaより引用

もしかしたら、わたしを知っている方の中には「どっちなんだろ〜」「なんなんだろ〜」みたいな人がいたかもしれないし、事実わたしも揺らぎの中で生きてきました。だから「これまで君付けしちゃってたかも…」とか思ってくれるあなたも、絶対に不快な思いをさせたかな、とか不安にならないでくださいね。

2年ほど前まででしょうか。わたし自身、性自認が揺らいでいたというよりか、自分自身をこうですって言えるまで、自分を知らなかったし、伝える術がなかったんだと今では思います。

常にどう生きればいいかわからなかった。常に問い続けてきた。話すとあまりにも長いストーリーなので潔く割愛しますが、多くの人が通る道を辿らずに成長してきた自分にとって「どこを見渡しても生きるための道しるべがない」ことは当たり前のことでした。

日本ではかなり少数派なクリスチャンであることのアイデンティティも、小学校4年生から高校卒業までの9年間一切学校に通わなかったことも、生まれ持った性に違和感を持っていることも、ひとつでも結構少数派だなあと自認することが多いわけですが、さらにそれが混ざり合い、それぞれのアイデンティティが反発(※)し合ってみんなにどう伝えればいいか悩む前に、自分が本当にどんな人間だか、どこを探しても道しるべがなくて、形容することもできず、ただただ、わからなかったんです。

※ キリスト教、特に敬虔なカトリックでは同性愛やそれにまつわる性的指向状態を罪とする傾向がある。

今のわたしから

実は、誕生日の前日、父に改めて自分がトランスジェンダーであることをカミングアウトをしました。わたしを知ってくださっている方々からしたら「え?その感じでしてなかったの?」って感じだと思うんですが。

父は、小さな「徳之島」という島で生まれ、鹿児島本島で男4人兄弟の中で育った生粋の九州男児。そんな彼に対して、わたしはわたしの感覚でしか計れないもので「まあ、察してるだろう」くらいに思っていたのですが、18歳の時にカミングアウトを済ませている母から最近「あんたのことお父さんわかってないよ〜」と言われ、25歳と言う節目もあって、こうして伝えるに至りました。

正直、社会でそのまんまで生きてる身としては、わざわざ家族に改まってそんな話をする必要はないっちゃないんですが、そんな風に決意するほどに、今のわたしはこの生き方と自分のあり方に確信を得て日々を進んでいけています。

今の職場の面接に訪れた際は「御社にとって前例がないことにも取り組んでいただくだとか、そういうことも起こり得ることですが、それでもわたしの生き方やビジョンを聞いて、ご縁があるのであればお願いします。」という風にお話をしました。

聞かれてもいないことから何から何までペラペラと話すわたしに、社長や専務、わたしが今就いているポジションの先輩に当たる方も、本当に耳を傾けてくださって「僕たちとしては何も問題ないけれど、君がこれから働く中で出会う取引先や、お客さまから向けられる視線や言動に対しては守ってあげることはできないかもしれないけど、そこは大丈夫?」と、半ばもうすでに面接結果言ってない?みたいなことまでお気遣いと共に言ってくださったりする、とても懐の深い職場で、今現在は本当にのびのびと「どうも〜、あ、トランス女性なんです〜、こんな普通に存在してるんですよ〜」といった具合にそんな空気を漂わせながら、常日頃「はじめまして」を繰り返して生きています。

日々生まれる大きな不安に苛まれ、死んだように生きていた中学生のわたしがみたら、どれだけ安心することでしょう。

海街diaryの4姉妹に憧れた17歳

2015年に公開された是枝裕和監督の映画「海街diary」

公開当時17歳だったわたしは「なんだかよくわからないけどなんかすごい子が出てきた」的な空気をたずさえて活躍しはじめていた新進気鋭の女優、広瀬すずさんと、幼い頃から愛してやまないわたしのロールモデルの1人である、長澤まさみさんの凜とした演技がどうしてもいち早く観たいと願った結果、運が良く完成披露試写会に鑑賞に参加することができました。

そこで、当時まだ思春期真っ只中ともいうべきわたしが目撃したものは「自分では到底手に入れることのできない、自然な人間の営みの美しさ」でした。

添加物なんてどこを探しても見当たらなさそうな食事、着飾る必要のない街、メイクっ気のない4姉妹、誰のためでもない屈託ない笑顔、生があって、死があって、命は生まれ、育まれ、サイクルしていく。どこを見渡しても、わたしが持っていないもの、持つことができなさそうにしか見えないものばかり。

そんな、角もいびつさもないかのように見える生の美しさを目の当たり前にしたわたしは「今までもこれからも、わたしはどんな選択をしたって、こんな風に自然に空気に溶け込んで美しくは生きられないんだ」と、文章にしておきながらなんですが「誰かが読んだ時に不快にさせていないか?」と、自己肯定感の低さからとんでもない思想に陥ったりしながら、日々存在としても違和が大きくなりつつある、男性的になっていく自分自身と対峙しながら、まるで死期が分かりながらも、何もできず生きるかの如く日々を生きていました。道しるべもないまま。

そして、長い時を経て誕生日の前日。わたしは、父に自分自身のことを話すために、家から近所のファミレスまで向かっていました。その日はとても晴れた気持ちのいい日で、それに意識的に気づいた時、なんだか「海街diary」のサウンドトラックアルバムに収録されている楽曲「桜トンネル」が無性に聴きたくなったんです。

「海街diary」の劇中で、楽曲「桜トンネル」が流れるシーンは、広瀬すず演じる15歳の少女 “すず” が、大人とも子供とも言いきれず「自分はこういう存在なんだ」とも言い切れない、思春期特有のあの居心地の悪さや、不安や、自らに意図せず与えられてしまった環境でどのように生きていけばいいのか葛藤を抱えながら、満開の桜吹雪の中、ただただ静かに穏やかに、考えていたくない様々なしがらみから、その瞬間だけ自然と解放されて自転車に揺られて風に吹かれる、そんなシーン。

空を見上げれば、太陽が眩しくきらっきらに晴れている。それでも「もう秋なんだけどね」とそっと教えてくれるような涼しい風に、女性として生きていこうと決めたその日から意識的に伸ばし続けた髪がサラサラと揺れて、目を閉じれば自然とこの景色に溶けていけるような、あの時にはなかった感覚が訪れました。

—17歳の頃。

「自分はこういう存在なんだ」

自分自身ですら確信することができなかった思いを、ここにいるわたしは、今や息をするように確信し続け、日々を生き、ここまでわたしを育ててくれた父にそれを告げようとしている。

そんな手のひらの中にある現実があまりにも不思議で、2015年から、形を変えずにそこにある「海街diary」というフィルムと音楽が、あの頃の自分とクロスオーバーする後押しをしたのか、なんだか泣きたいような、笑っちゃうような、なんだかとっても形容し難い気持ちになったのでした。

どんなにもがいたって

美しさとはなんたるか、ただしさとはなんたるか、常に道しるべを探し、こんないびつな形でも、美しくただしく生きれないものかと葛藤し、むせび泣いてきた23歳くらいまでのわたし。

今、わたしはきっとどこかで気づかないうちに分岐点を通り、日々に浅く「うん、うん」と頷きながら、わたしをわたしたらしめてくれる、わたしを「あなた以外の何者でもない」とその瞳に映してくれる方々に囲まれて生きています。

どんなにもがいたって、決して、わたしはわたし以外になることができない。どんなに考えたって、どんなにもがいたって、どんなに道しるべを探したって、そんなものどこにもありはしない。

わたしはわたしでしかなく、わたしの外にはわたし以外しかいない。

ただしさも、美しさも。全て「わたしのための、わたしだけのそれ」があるだけで「ただしく美しい形」なんてどこにもなかった。

そんなことをわざわざ文章にすることが必要なくらい、わたしにとってはそれが、このもがき苦しみ泣いて葛藤してきた人生の中で、いついかなる時でもどこにも逃すことがないくらいに一番に得た大きな学びでした。

「今この世界には」とかいう視点で語るとあまりに大きく聞こえるけど、事実、わたしたちを取り巻く生活の中には、あまりにもやたら指標があって、ものさしがあって、形容詞があって。

でも、違った。違う。どこにも何も求めなくていい。何も探さなくてよかったの。わたしの中で生まれること、あなたの中で生まれること

全てそれぞれの形があるもので、わたしたちはそれぞれがそれを深く知り続け、世界に放ち続ける。この社会は限りある時間をあまりに有効に使おうとしすぎて、そんな1つ1つの小さな違いや、いびつさを知ることを後回しにしてしまう。

そんなあなただけが、わたしだけが持つものが、どんなに大切なものなのか知らないまま。

あなたはどなたでしょう?

あなたはどなたなのでしょう?

この幾重にも重なる「わたし」と「あなた」という世界の中で、わたしはどんな風に、あなた(たち)と生きていけるのだろうと常日頃、思いを馳せるのです。

どうか拒まないでほしい。
目を見て語らいたいと願っている。

社会がそれを拒んできても。
立場が視界をぼやけさせても。
欲望がそれを阻止してきても。

どんな悩みがあり、どんな愛情を持っていて、どんな絶望があるのだろう。
どんな風に何を望み、何を語りたいのだろうか。

「あらためまして、はじめまして。」

わたしはこんな形をして、こんな口調で、こんな風に幸せを感じ、こんな風に生きたいと願っています。

これを読んでくれたあなたが耳を傾けてくれるのなら、あなたがこっそりとわたしに耳打ちをしてくれるのなら、とてもとても、嬉しく思います。

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