マクドナルドでしか補えなかった栄養の話

マクドナルドに駆け込んでいた日々

わたしがフリーターだった時、強い疲労感に襲われるたび、マクドナルドに駆け込む癖があった。

疲れている時ってやっぱり忙しくしていて、しっかりと栄養バランスの取れた食事ができなくなりがち。だからこそ、できることなら少し時間を作ってでも、そういう食事を心がけるべきだということは、わたし自身が一番深く理解していたし、そうしたかった。

それでも「早く出てくる」だとか「安い」だとか、そういったことだけではない何かに惹きつけられるかのように、疲労を感じるたびにマクドナルドに駆け込んでいた。

暗闇に魅了された幼少期

話はガラリと変わって、わたしは暗闇が大好きな子供だった。映画館、プラネタリウム、真っ暗な部屋。どれだけ両親に「目が悪くなるよ」と注意されても、遮光カーテンの上から更にブランケットや適当な布をかぶせて陽の光が一切差し込まないようにするほど、暗闇が大好きだった。

なぜそんなに暗闇に居心地の良さを感じていた(いる)のか自分にも分からないけれど、それでも暗闇の中で体験する映画やゲームは、まるでその世界に自分が身を置いているかのように没入できたし、暗闇の中で聴く音楽は、自分だけのために耳元で奏でてくれているかのように感じることができて好きだった。

そんな暗闇に魅了されるわたしの様子を両親は心配していた。特に、太陽を浴び、太陽に導かれ、太陽に癒されて生きてきた(ように見える)鹿児島県出身の父は、わたしが心底感じている暗闇の心地よさがが理解できなかったようで、わたしが少し外出しようものなら、全ての布は取り外され、全ての窓を開けて風通しを良くし(室内の風通しがいいことにとにかく執着する性質を持つ)ひどい時だとそれで喧嘩する時もあった。

そんな光と闇の抗争が家庭内で度々起こりつつも、どんなに成長してもなお暗闇でイキイキと生きつづけるわたしを見て、慣れたのか諦めたのか、両親も段々と何も言わなくなっていった。

太陽の下で育った父と、暗闇の中で育ったわたし

時は過ぎ、進路も決めないまま高校を卒業して、日に日に募る焦燥感と、漠然とした大きな不安を抱えつつ、暗闇から見つめ続けていた大きな光の方へ、なんとなく心細くも歩き始めようとしながら、何もできず2ヶ月が過ぎようとしていた頃、酔っ払ってうまく呂律が回らなくなった状態の父と話すことがあった。

父は父なりにわたしを心配していたのだと思うけど、仕事が忙しかったことはもちろん、そもそも「自分の〜」とか「他の家の〜」とかに関わらず、子供との関わり方をあまり知らないように見受けられる父が、わたしの置かれた状況にどう思っているのか深く把握せずにいたし、話し合うことをしてこないでいた。

そんな父から「これからどうするんだ、何を考えているんだ」と尋ねられ、立て続けに「あんな真っ暗の中で外にも出ないでいて!」と、しばらく触れられてこなかった暗闇で過ごし続けていることに対しても「心底理解できない」といった様子で、価値観の違い、視点の違いをぶつけられ「自分の子」であるはずの目の前のわたしが、何をみているのか、どこに進もうとしているのか、父からしたら、恐怖や怒りが伴うほどに分からず理解し難いのだと、改めて強く深く感じたのを今でも覚えている。

太陽の下で生きてきた父。父の話を聞いていると、父の中にある正しさや健やかさは多くが太陽の下にあるように感じられる。だからこそ、濃淡すらもないような暗闇の中で、わたしが眺めていた画面の中から吸収したたくさんの夢や、憧れや、希望、そしてわたしが「暗闇の中から光を見つめている」ことを知らず、気付けなくて当たり前なのだ。

暗闇とマクドナルドを欲する時は

あの時、マクドナルドからでしか補えなかった栄養が、暗闇の中で過ごすことだけでしか見えることのない光が確かにあった。どれだけ誰かにとって不健康に映っていようが、あの時は、わたしの人生において、とても必要な時代だった。

たとえ「同じ質量(もの)」でも、その時の気持ちや体調、友人や家族との関係、仕事の忙しさ、好きなもの、嫌いなもの、大切にしたいものや憧れ、できれば避けて通りたい孤独感…、日々ゆっくりと移り変わる自分の中のバランスと同時に、受け取り方は変わっていく。

学生の時に背伸びして観た少しビターな映画が、大人になって観返すと苦しいほど刺さってきたり、はたまた逆のことが起きたり。

自分の感覚で人に何かを差し出すのは容易だけれど、目の前の誰かが漏らす辛さや抱える悩み、密かに感じる喜びは、常に「わたしにとってのそれ」ではなく、「いま目の前にいるその人のそれ」でしかないということ。

嬉しさも、楽しさも、悔しさも、苦しさも、言葉だけで語ると同じように共有できているようにみえて、わたしたちひとりひとりの中にしかないということ。そんな全く異なる形を持って関わり合うわたしたちだから、分かり合えた時こんなにもうれしい。

暗闇の中で育ったわたしは、暗闇の中にいる時も、光の中に包まれている時も、そうでない時も、いつだってそんなことを思う。

季節というのはなぜ毎年こんなにも忠実なんだと感嘆したくなるほど、日に日に雨音を聞く日が増え、それと同時に鬱々とする気持ちが多くの人に訪れるこの季節に、わたしはこのエピソードと共にこんな言葉をかけたいと思う。

もし今あなたが忙しくしていたり、体調が悪かったり、他の人から咎められるような状態に陥っていたとしても、あなたが今それでいたいなら、もしくはそれでしかいられないのなら、それでいい。

1人で好きなものを食べて、誰にもその気持ちを口にせず眠ってもいいし、思いっきり元気なふりをしてみてもいいし、1人で泣き喚いたっていい。どんな気持ちでいても、あなたが心地よくいられる場所を見つけて。

誰かに分かってもらわなくても大丈夫。

それでも、近くにいる人なのか、遠くにいる人なのか、顔も知らない誰かなのか分からないけれど「分かってもらえなくても、知っていてほしい」だとか、そんな気持ちがあるのなら、少しだけあなたを知るきっかけを誰かに与えて。

明るく昇る太陽は、わたしたちを照らしてくれるけれど、星や月を見えにくくする。暗闇から見えるわずかに輝く星や、月や、なんとなく光って見える方向に進んでいけたなら、そう進んでいける時はいつか来ると信じられたなら、あなたは大丈夫。

暗闇から光を見つめ続け、いまあなたに語りかけているわたしがいつもそうしたように。

そして、そんな風にささやかにそんな自分を示し続けたわたしを、誰かが見守り続けてくれたように。

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