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どうしてこんなに泣きたいんだろう

メイクを落とさないまま寝てしまっていたようだ。昨日、なぜか深夜の2時過ぎに起きてしまったまま、ぐるぐると色んなことが頭をよぎって、そのまま朝を迎え、1日中外で過ごした。

「…まあ、1日中動いていたから仕方ない」と、誰に責められているわけでもないのに、1人心の中で呟く。

勤めていた会社を辞めて、随分とゆっくり流れるようになった毎日にも慣れてきた。とは言いつつも、本来の意味で身体や心が休まった日は、1日、1時間、1分1秒としてなかった。

会社からやることを与えられることは、本来とても幸福なのだと気づかされた。自分がやることを自分で見つけ、自分で自分を律していくことは、あまりに自分の割合を自分自身が占めすぎていて、自問自答が繰り返されすぎる。けれど最近は、改めて生活を組み立てていく中で、そんな苦しみが生活に漂っている生活の正常さを、喜びに変えられていると思う。

最近は今後に繋がってくるような依頼や機会をもらうことも多く、文章を書いたり写真を撮ったり、私はこの人生を通じて、何かしらの表現をしながら生きていくのだなと日々改めて実感しながら生きている。

私のことを知っている人たちからすると、意外と思われるかもしれないけれど、先日、生まれて初めてデモに参加した。

一緒に歩いたまるちゃん、こーへいくん、理子ちゃんありがとう

決して参加したくなかったわけではなく、嫌悪感があったわけでもない。けれど、参加しようと思うと、何故だか身体が硬直してしまう。きっと、気がかりなことがたくさんあったからだ。

私は間違っていた

振り返ると私は、ジェンダーや宗教、単なる学校生活や興味関心ごとにおいてマイノリティであることを深く実感していながら、そこに存在しているコミュニティーや組織に居場所を求めず、生きる上で大きな割合を占めるアイデンティティをマジョリティとして生きている人たちと対話を試みてきた。

それは、9歳から約9年間もの不登校期間の間、小さな子供が1人で暮らすには十分すぎる7畳ほどの子供部屋で1人、「この部屋を飛び出した先に、どのような景色が待っているのか」と大きな疑問と不安を抱え続け、手段としてのコミュニケーション能力や、表現のようなものを得て、自分の力で実際に解き明かし、実感したいことだったからなのだと思う。

当たり前のことだけど、私の外には、常に私ではないものが存在している。この世のどこに身を置いていても、どこか居心地の悪さを感じながら生きていくことを、今の私はありのままで理解している。

しかし、それが色濃く見える、特定の世代や性別、国や地域、職業の人に対して「自分を理解してくれなさそう」という歪んだバイアスをかけていながら性善説を信じる私は「その中にだって私を私のままその瞳に捉えてくれる人はいるだろう」と、信じてみたかった。

そして、それは実際そうだった。

けれど同時に、その特定のコミュニティーや組織には、独自の文化や空気感が脈々と受け継がれていて、自分が自分のままでいることが許されない場面も少なからずあった。私が話す言葉、話題、抱いている怒りや憤りは、ある人たちにとって「隠すことが美徳」「公に話すことではない」ものであることを肌で感じ、私も彼らに寄り添うようになった。「私のこの言葉や感情はあくまで一個人としてのそれで、あなたに強要するものではないよ」と、にこやかな素振りで話しかけた。

そして、彼らが抱く社会問題に対するもやのかかり方、物事の捉え方、黙ることを無意識に強制されている自分自身の姿からくるアクティビズムへの不信感が、同じ景色や話題を通じて見えてきて「一緒に考えてほしい」と、呼びかけることができなくなってしまった。私は、私の特別な悲しみや怒りを「みんなと同じ普遍的なもの、みんな辛いんだ」と、自分に言い聞かせ、日常に溶かした。

けれど、それは間違いだった。

社会には、誰かが自分の苦しみや悲しみや怒りを口にした時「みんな大変なんだ、君だけが辛いわけじゃない」と、その言葉や感情を封じ込めようとする人間が山ほどいる。彼らが言うそれも理解できないわけではない。確かに、人間誰しも日々何かに悩み、苦しみながら生きている。けれど、特定の話題や状況の最中に、目を向けられなくてはいけない「特別な苦しみ」があることを、今の私は理解している。

誰かが誰かを傷つけた時、傷つけてしまった側にも苦しみがあることは理解できる。そしてその苦しみもまたケアされるべきだと思う。けれど、一刻も早く手当を行わなくてはいけない「特別な苦しみ」がある場において、傷つけた側の苦しみについて、同時進行で言及するべきではないのだ。

どうしてこんなに泣きたいんだろう

ここでデモのことについて話を戻す。私は、あらゆる手段でヒューマンライツを訴える心強い友人や仲間が数多くいる一方で、声があまり届いていない、そういったことを話題にあげてはいけない空気が漂う場所やコミュニティーで多くの時間を過ごしてきた。その中には、個人として様々な怒りや悲しみを感じていながら「今はその話をするべきじゃない」「自分の思い通りに社会は動かない」「物事を円滑に進めるために『(社会的に)大人な対応』をするべき」と、個人の言葉や、思想や、憤りを奪われてきた人たちが多く生きていた。

「デモを見かけると責められているように感じる」と口にしている人がいた。「こんな社会なら、声を上げても仕方ないのかなと思ってしまう」と口にする人がいた。それは、社会を生きる中で日々小さくも大きくも怒りや憤りを感じていながらも「すぐに変わらないんだからこうした方が無難だ、こうした方が今日1日を生き延びれる」と、手段として黙ることを身につけた人だからこそ出てくる言葉だとすぐに理解することができた。

1日、たった1日を生きるだけで、どうしてこんなに泣きたいんだろう。

今日も変わらず、私の外には私以外しか生きていない。同時に、私は私という意識の中にしか生きていない。私の声は、意識は、苦しみや、やりきれない怒りは確かにここにある。なのに、人々の生活は何の問題もないように続く。

目を閉じて、自分の声に耳を澄ますと、誰かの聞こえない声が聞こえる。誰にも見られないように泣いている顔が見える。苦しみに気づかないふりをしている人の姿が見える。

私は誰かの苦しみに耳を傾けたい。けれど、その感情はどこまで掘り下げても誰かのものであって、一体となって理解することはできない。それでも私は、自分の中にしかない自分の感情について理解した今ここから、私の外にある感情を感じて、分かち合ったように思える空気の中、そこに生まれる喜びの波動の中に、共に声を上げたい。

確かにそこにある実態、意識、肌の温度、本当に心強かったの

みんな苦しんでいる。怒っている。悲しんでいる。けれど、一刻も早く掬い上げられなくてはいけない声や、問題がそこら中に散らばっている。

自分と異なるアイデンティティを持つ人たちの声、他国の戦争、未来にあるかもしれない脅威。自分のことで精一杯の人生で、無関係でいようと思えば、表向きには無関係でいることができる。

けれど私たちには共通点がある。意識があり、身体という個体や、言葉や表現を通じて、意思の疎通を図ろうとしている。言い換えると、共通点はそれくらいしかない。

戦争と聞いて、灰色の空や流れる赤い血だけを想像してはいけない。

今日はいい天気だ。外に出たら太陽の日差しが私に降り注ぎ、私はその眩しさと冷たい風を感じられるだろう。そうだ、自転車に乗ってコーヒーを買いに行こう。のびのびと安らぎに体重を預ける。その瞬間、目の前でいきなり誰かが殺される。

銃弾が飛び交う戦地にも、貧困に苦しむ家庭にも、生活物資が足りず苦しんでいる被災地にも、その生活の中に笑顔や青空が必ずある。反対に言えば、私たちが今見上げれば存在するこの青空の下に、目を背けたくなるような不条理や不平等が溢れかえっている。

私たちが他のどの動物でもなく、人間として生まれた喜びや苦しみは、こういった風景を、情景を、自分自身という身体の中では決して理解し得ない他者の意識や感情を想像できるところにある。

私たちはどこまでも1人。

私の怒りや、苦しみや、悲しみは、本来の意味のままでは、決して誰にも理解されない。けれど、理解しようとしてほしい。どうにか解決できないかと「難しい、難しい」と、共に頭を悩ませてほしい。

私はこの人生の中で、自分と誰かのために共に戦い、共に喜びを分かち合いたい。お互い別々の事情を抱え、理解し得ないことの中にいることを知って、毎日泣きたい気持ちを抱えながら。

くだらないことで時に意図せず人を傷つけて、お腹を抱えるほど笑いながら。

大好きな作品の登場人物のセリフ
ちゃんとめちゃくちゃ笑ってますのでご安心を



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