「差別」は悪い事じゃない
「差別」という言葉になんとなく悪いイメージを持っているという人は少なくないと思う。
イメージというのは何気ないことに簡単に引っ張られてしまう。人種差別、男女差別、そんな風に人を傷つけるときに使われがちなこの言葉をなんとなく悪い言葉だと僕も思い込んでいた。
ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。
それが「差別」の意味だ。
僕たちは普段ほとんどのことに差をつけて見てはいないだろうか。
鶏肉より豚肉の方が好きだなあ。今日はロックよりポップが聴きたい気分だなあ。という別に何をバカにしているでもない些細な選択も「差別」にあたるのだ。
そして「区別」は違いを同列に扱うこと。
差別が悪で区別が善ではなくて、違いを差をつけて見るか、同じ高さで見るかがただ違うだけ。
そしてぼくはどちらかではなく両方を使うのがいいと思う。
たとえば人と話していて価値観のぶつかり合いになる時は先に「差別」がある。こういうことに関しては一度「区別」を経由して最終的にはやっぱりこっちの方が好きだなと「差別」に落ち着く。
人種や性別などそこに格差があるのは変だなあと思うことに関しては「差別」を感じることがあったとしても「区別」に着地したい。
人の意見を聞く時に「区別」がないと「よりよい差別」ができなくなったりもする。納得できない誰かからのアドバイスも一度「区別」というフィルターを通す事で余計な感情がろ過されるのだ。
この考え方は落ち込んだときにも使えると思う。
あいつはうまくいってお金を稼いでるのに。自分はあの人みたいに仕事できなくて役に立たないな。そんな風に人と比べて、人と自分に差をつけているとどうしてもしんどくなってしまう。
だけど人との違いを知ること自体はとてもいいことだと思うのだ。光があるから影は影だと分かるように自分だけでは自分の良さも苦手なことにも気がつけない。
他人と自分を「区別」して見る意識をするだけでずいぶんと気持ちが軽くなる場面があるのではないだろうか。
「差別」そのものが悪い事ではない。ただし「区別」とセットにしないと暴走してしまうのかなあと思う。
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