見出し画像

クソリプをする人に対しての考察

ある女性ミュージシャンのツイッターに、DMで非公開情報を求めてきたり、どこ目線かわからないアドバイスを送ってきたり、自分の日記のような文章の返事を催促する方がいて一度行動を省みてほしい。という内容が書かれていました。

怒りの感情でぶつけるわけでなく「情報」として丁寧に伝えているのが好印象でした。

こういう問題は男女問わずいろんなところで聞いたりします。そしてそこから共通して出てくる話で多いのが伝わってほしい人にだけ伝わらないという内容です。

例えば「上から目線のメッセージは嫌だなあ。」とツイートをしたとして「そうだよね!そんなこと言うやつがいるからこの業界がダメになるんだ!」みたいに「いやいやあんたですやん」な返事をする人がいます。いわゆるクソリプです。

そういうシーンがいたるところで見られるのですが、どうしてそういうことが起こってしまうのか。それはコミュニケーションをしていないからだと考えています。



コミュニケーション。
僕はそれを互いの感情を主役にすることと定義づけています。

ライブでいうならお客さんの思い出が引き出されたり、閉じ込めていた感情の蓋を開ける、自分自身も感動している。つまり「互いの感情を主役にするもの」がいいライブだと思います。

「ああいいライブをしたぞ」と気持ちよくなっている時、お客さんの反応は良くないものです。それは自分の感情を分かってほしい感情。つまりエゴで歌を歌っていたからです。

先日つんく♂さんが「ステージに立つ人間が気持ちよくなったらあかん」と言っていて答え合わせができた気がしています。

どう表現するかは100%それぞれの自由ですが少なくとも僕がいいなあと感じる歌、パフォーマンスは「曲に真空パックされた感情をただ表現するようなもの」です。

私とあなた、ではなく私とあなたの間に「できごと」という接着剤があることでコミュニケーションは成立し得るのではないでしょうか。

映画のキャラクターたちにはそれぞれ感情がありますが、キャラクターになってしまうのではなく映画を上映するようなイメージです。映画は客観的視点(できごと)で見れるから自分の感情が主役になれるのです。

そしてキャラクターとして主観で感情を動かされることもやめてはいけません。感情のないキャラクターを描いても感動できませんから。


青年失業家の田中泰延さんのツイート

「他人に興味がある」などと言う人間は、結局自分に興味があるのだ。他人が自分をどう見るかに興味があるのだ。他人にも自分にも興味ない状態、真のコミュニケーションは実はそこから始まる。

ものすごくわかりやすく言いますと「あなたは美人ですね」からも始まらず「僕は金持ちなんだよ」からも始まらず「綺麗な花が咲いてますね」から始まるのが良いコミュニケーションです。

これも私とあなたの間に「できごと」という接着剤がある状態ではないでしょうか。


DMで非公開情報を求めてきたり、どこ目線かわからないアドバイスを送ってきたり、自分の日記のような文章の返事を催促する人は自分の感情を分かってほしい感情で行動していると予想します。

「今日こんなことがあったんだ。」「僕はこんなことを思ってるんだ」自分の話を聞いてよとエゴの押し付けがそこで起こっている。できごとを話していても主役は自分の感情なのです。

自分がどう思っているかばかり気にしている。自分のことしか見えていない状態。そこから導き出される行動や発言は相手への思いやりが欠け自己中心的なものになります。

思いやりは想像と確認。

想像することで可能性を絞ることができる。だけどそれだけでは自分のイメージでしか答えが出せない。イメージは事実ではない。確認もセットになって初めて相手が存在するのです。

「上から目線のメッセージは嫌だなあ。」に「そうだよね!そんなこと言うやつがいるからこの業界がダメになるんだ!」とトンチンカンな返事をしてしまう人は、実際に自分がどういう行動をしているかを「できごと」として見ていません。

だからまず想像するという感覚がないし、想像しても確認を怠るので自分がそこに当てはまっている可能性にすら気がつけないのです。

互いの感情を主役にするには、私とあなたの間に「できごと」という接着剤があるように会話すること。

自分がどう思うかでしか考えられないとコミュニケーションは成立しないのです。


またこれは何も悪いことをしていないのに自分のことかもと思い込んで病む人にも当てはまります。

べつにDMで非公開情報を求めてきたり、どこ目線かわからないアドバイスを送ってきたり、自分の日記のような文章の返事を催促したりしていないのにも関わらず、もしかしてとありもしない不安を抱えてしまう。

これも自分がどう思うかでしか考えられていない、もう少し具体的に言えば想像だけしていて確認をしていない状態です。

「確認する」という行為は「もし自分がそういうことをしていたら教えてください」「あの時のあれはアウトかもしれないと不安になってきましたが、大丈夫だったでしょうか?」と感情を抜いたり感情ごと「できごと」として表現することです。

一方こういう時によく見るのが「それって自分のことかもしれません…もしそうだったらごめんなさい…しばらく発言は控えようと思います。」みたいな内容です。

これは確認ではなく「想像の報告」です。

せっかく何も悪いことをしていないのに、自分一人で想像して落ち込んだ感情を相手に押し付けるという相手にとっては嫌な行為になってしまいがちなんですね。

「相手に自分がこう思われているかもしれない」という自分の感情だけを見ている。そこにコミュニケーションはありません。

それを避けるコツは確実に自分宛に書かれているメッセージ以外はただの情報として見る意識をすることです。

日本語は主語を省くことができる言葉です。それに「みんな」「世間」という広すぎる主語も多いです。そういう文章は自分に当てはめやすいのでSNSでは特に思い込んでしまうことが多いのだと思います。

この記事のタイトルも「クソリプをする人」ですがこれも明確に具体性があるかと言われればそうではありません。主語の大きさは使う側もバランスを取るのが難しい領域ですね。


僕自身がもともとコミュニケーションをサボり続けてきた人間なので、他人にどうなってほしいというよりも「またそうしないように気をつけたい」という気持ちがあります。

逆に受け取る側が気にしなければいいじゃないかとも考えられますが、歩いていて車のクラクションを鳴らされたらどうしても気になりますよね。大きな音で強制的に耳に入ってくるのですから。意識して追い出せる情報には限界がある。

自分は変えられる。周りは変えられない。苦しい気持ちもできるだけ「できごと」として表現しつつ、自分が変えられることに集中しながらやっていけたらいいなあと思います。

自分に厳しく、他人に優しく。というやつですかね。

でも自分へは「優しい厳しさ」で接したいので自分にも他人にも優しくかな。今はまだ厳しいが大きい気がするなあ。


よかったら投げ銭感覚でサポートお願いします:-)