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わきまえていないのは #4-3

 日本で最も大きな夏フェスのひとつが中止になった。

 率直に言って、とても残念だ。ほとんど空白とも言える2020年を経て、また、大きな緊張を抱えて臨んだゴールデンウィークのフェスを乗り越えて、少しずつコロナ禍の先に新しい日常を見出すための、はじまりの季節だと、この夏を捉えていた。

 当時の逡巡についてはこちらの投稿を読んでほしい。音楽関係者の困惑や憤り、そして努力についてもここに書いた。

 ロッキンオンの渋谷陽一が言うように茨城県の医師会の要請は曖昧ではあるが、懸念自体は間違ったものではないと俺は思う。一方で、規模も影響も桁違いのオリンピックに対して、「要請を出す時期でも案件でもない」と雑誌の質問に医師会が回答した件については、違和感がある。我が県以外の未来の罹患者については関係がないとするかのような物言いは、医師の態度としてどうなのかと素朴に思う。医師とは、どういう倫理観を持つ職業なのだろうか。

 医師の助けなくしてロックフェスの開催が危ういことも確かだ。真夏のフェスでは、どう気をつけても熱中症などで体調不良を起こす人がいる。医療機関に支えてもらっていることは事実だろう。分断ではなく連携こそが、これからもあらゆるイベントにとって必要なことだと思う。医療従事者の皆さんには、常に感謝の念を持っていることをここに記したい。

 そして、これは自分ごとではあるが、2011年のロックインジャパン、そして今年のJAPAN JAMと、俺がブログに何かを書いたときに限って渋谷陽一は楽屋に来ない。そういうところがある、ということもここに記さないとフェアではないと思ったので書く。

 ロックインジャパンが中止になってから、自意識過剰かもしれないが、俺が何かを言うのではないかという期待というか少しの圧を感じた。普段からいろいろなことに対してヤイノヤイノ言っているわけだから、何か言うだろうなと思われて仕方がないのかもしれない。

 けれども、自分の思っていること、感じていることを誰かに代弁させようとするのは、卑怯なことだと思う。憤っていること、納得のできないこと、それぞれが自分の言葉で発するべきだと思う。

 自分の言葉で、自分の考えを書く。

 俺はずっと怒っている。

 布マスク2枚配布という世紀の愚策に。困窮者よりも支援者のほうを向いた支援策に。補償なき自粛要請に。叩けるところから叩くメディアのあり方に。お互いを監視し合うような空気に。いよいよ誰のためかわからないオリンピックに。一向に上がらない投票率に。ずっと続いている政府の不正と隠蔽に。もちろん、それでも彼らに負け続ける自分の不甲斐なさに。

 ひとつのフェスの中止への無念や憤りでは、骨身まで震える怒りのガス抜きにすらならない。

 音楽が禁止される社会では、「音楽だけやる」だなんてことは不可能だ。そういう社会が実現する可能性をひとかけらでも残さないために、ひとりの市民として、やらなければいけないことがある。皆がのびのびと音楽を楽しむ(野放図という意味ではなく)ことができる社会を維持する責任が、自分にはあるのだと俺は考えている。たった今、自分が享受している自由といくらかの進歩を、未来の世代に手渡す責任がある。またアイツが阿呆なことを言っていると言われても、音楽を仕事にしているからこその、責任だ。

 夏が終わり、オリンピックが終わり、祭りのあとに皆が白けて、あるいは泡沫の感動に呆けて、最低の投票率を更新しながら現政権が衆議院選挙に勝つのだろうか。我々市民は、自分の考えにぴったりの政治家がいないのだと、野党が不甲斐ないのだと嘆きながら、権利をドブに捨てるのかもしれない。

 どう考えるかは、それぞれの自由だ。

 だが俺は、そういう未来を望まない。