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みかんの色の野球チーム・連載第43回(最終回)


エピローグ
 

 多摩川の上流に架かる鉄橋を、電車が1本、渡っていった。
 私と愛犬は、土手道を並んで歩き、いつもの河川敷の広場へと向かう。
 日曜日、朝の6時前。
 夏の太陽はまだ顔を見せず、涼しい風が時おり川面から吹き上がってくる。
 早起きして来た甲斐があって、どうやら今日は一番乗りのようだ。
「それ行け、ブッチン」
 引き綱を首輪から外して自由にしてやると、細長い尻尾をぐるぐる回し、牡4歳のダルメシアンは勢いよく土手を駆け下りていった。
 休日の散歩は、広い河川敷を、好きなだけランニング。愛犬にとって、いちばん幸せな時間なのだ。
 夢中になって駆け回るその姿に、幼馴染たちがオーバーラップする。
 40年前の私たちもまた、ただひたすらに少年時代を駆け続けていた。
 
 仲よしの5人は、同じ中学校を卒業して、同じ高校へ進み、そこから別々の道を歩んでいった。
 ブッチンは、福岡の国立大学の法学部へ進学し、司法試験に合格して弁護士になった。その後、故郷に戻って法律事務所を開業し、あまりお金にならない忙しい毎日を送っている。持ち前の正義感を発揮するのに、うってつけの職業を選んだものだ。
 ヨッちゃんは、地元の企業に就職し、社会人野球チームのレギュラー選手として10年ほど活躍した。現役を引退してからは、仕事の合間や休日に、少年野球チームの監督を務めている。教え子の中からメジャーリーガーを育てるのが、いまの夢だそうだ。
 カネゴンは、金子電器店の跡を継いだ。昔からお金に強いカネゴンだったが、恵まれた商才は、平屋だった店舗を、商店街でいちばん背の高い7階建てのビルに変えた。いまや大分の県南エリアに5店のチェーンを展開する「KANE電器」の社長さんだ。
 ペッタンは、大阪の調理師学校を経て、関西地方の日本料理店の厨房を転々。5年ほど前に、ひょっこり津久見に戻って来て、カラオケ居酒屋を始めた。ブッチンやヨッちゃんやカネゴンが常連客になって、そこそこの繁盛ぶりを見せているらしい。
 また、山本佳代子は、地元の小学校の先生になった。あんな事件を体験したからこそ、教育の大切さというものを知ったのだろうか。ブッチンではない男性と結婚し、4人の子宝に恵まれた。いまでは教頭先生として、少年少女たちを教え導いている。
 そして、この私は、東京の人間になった。
 東京の大学に入り、東京の会社に就職して、いまも勤務を続けている。
 幼馴染たちが故郷で暮らしているのに、1000キロも離れたこの地での人生を、どうして私だけが選ぶ結果になったのか、それはよく分からない。
 もしかすると、それには、深大寺ユカリという存在が関係しているのかもしれない。
 初めて恋をした少女への憧れは、東京という大都会への憧れでもあった。
 彼女が津久見を去った後も、その思いは長く私の心の中にとどまり、いつしか東京へと私を向かわせる、大きな力を得ていたのだろうか。
 あの、ピンクが似合う小柄な女の子が、どんな大人になり、いま、どこで、何をしているのか。それを知るすべは、まったくないのだけれど。
 
 愛犬が独占していた河川敷の広場に、草野球チームのメンバーが集まってきた。猛暑の中での練習が、今日も始まろうとしている。
 私は、空を見上げた。調布の飛行場からの機影を探そうとして。野球と密接な関わりを持つ、セスナ機が飛んでくるのではないかと期待して。
 
 私たちに、津久見という町に生まれた喜びと誇りを与えてくれた、昭和42年の、みかんの色の野球チーム。
 センバツ優勝の原動力となった吉良修一投手は、その後、阪神タイガースに入団した。
 トップバッターを務めた大田卓司選手は、西鉄ライオンズに入団した後、太平洋クラブ、クラウンライターを経て、西武ライオンズでも活躍。昭和58年の日本シリーズでは、MVPに輝いた。
 津久見高校野球部は、その後も市民たちの熱い声援に応え続け、センバツ優勝の5年後、昭和47年には、夏の甲子園でも全国制覇を成し遂げた。
 しかし、春6回、夏12回の甲子園大会を戦った郷土のヒーローも、昭和63年の夏の出場を最後に、もう数十年も、晴れの舞台から遠ざかっている。
 高校野球の戦力と、それを支える町の活力は、けっして無関係ではない。
 隆盛を極めた津久見のセメント産業は、採掘資源の減少とともに衰退の一途をたどり、空高く聳えていた2つの石灰山は、地上から跡形もなく消えた。
 経済のコアを失った小さな港町は、じわじわと過疎化と少子化の波に呑みこまれていき、人口も2万人を割った。抗いようのない財政難は、市民たちの生活に重くのしかかっている。
 これが、現実だ。
 だが、現実だけが、すべてなのではない。
 ほんとうに大切なものは、いつだって心の中にある。
 思い出の町と、思い出の人たち、そして思い出のチームは、あのときの輝きをすこしも失うことなく、私の命のある限り、これからも生き続けるのだ。
 
 草野球の練習が始まった。キャッチボールの輪が、だんだんと広がっていく。そろそろ場所を譲ったほうが良いだろう。
「ブッチーン!」
 大きな声で、私は呼んだ。
 河川敷の向こうから、喜び勇んで愛犬が走ってくる。
 私もいっしょに、走り始める。
 風といっしょに、走り続ける。
 背後から、夏の日差しが追いかけてくる。
 青い空を、白い雲が流れていく。
 そのなかに、一機。
 見つけた! 飛行機だ!
 
 (おわり)
 


 本作をお読みいただき、ありがとうございました。
 400字詰め原稿用紙換算で、約650枚。読者の皆さまに、ちょっとした長編小説にお付き合いをいただいたことになります。
 いま老境にある私が思うこと。それは、たいへん残念なことですが、若い方々が人生を歩んでいくこれからの時代が、ますます生きづらい世の中になっていくということです。少子高齢化が進んで国の活力がどんどん失われ、経済力の低下にともなって国際社会における日本の立場は弱くなっていくばかり。格差や貧困や失業、病気や介護や犯罪や自殺、膨らむ一方の借金(国と地方を合わせると1270兆円以上もあります)、それに世界の各地で広がっている戦争や紛争、地球温暖化の問題だって深刻です。テレビのニュース番組とか見てると、自分たちの将来が、これからどうなっていくのか、不安で、不安で、しようがないよね。
 これを、権力を手にしたいだけの政治家たちや、お金ばかりが愛しい財界人たちのせいだとは、言いません。なぜなら、こんな状況になった日本を、皆さんたちの若い世代に受け継がせなくてはならなくなってしまったことに、私を含めて、いまのすべての大人たちが無関係ではいられないと思うからです。
 人は、生まれる時代を選べません。戦争の犠牲になった人たちが、好きであの時代に生まれたわけではないのとおなじように、皆さんだって、もっと豊かで、明るくて、楽しくて、安全で、平和で、つまらない勉強ばかりさせられるのではなくて、希望と思いやりがいっぱいの世の中に生まれてきたかったに違いありませんよね。でも、それは、グチを言ってもしかたの無いこと。では、どうすれば、いいのか。
 これでも人生の先輩として(責任を感じている大人の一人として)、私がアドバイスできることが、ひとつだけ、あります。
 友だちを、つくってください。たくさん、たくさん、つくってください。たくさんが無理なら、すこしでもいいですし、一人でも充分です。
 そして、友だちを、大切にしてあげてください。友だちに訪れたHAPPYな出来事を、自分にとってもHAPPYだと思えるような、そんな仲になってください。そしたら、友だちも、あなたのHAPPYを、自分のHAPPYのように喜んでくれますから。家族には話せないことも、友だちになら相談できる。そんなことって、あるでしょ。友だちは、あなたの人生の、だいじな宝物です。
 私は、きょうまで66年間、生きてきました。楽しいことや嬉しいこともたくさんあったけど、悲しいことや苦しいことや辛いことも、いっぱいありました。でも、たくさんの友だちをつくってきたおかげで、そのつど友だちに支えてもらって、なんとかピンチを乗り越えてきました。もちろん、友だちのピンチを助けてあげたこともありますよ。なぜ? それは、友だちどうし、だから。
 皆さんにとっての、ブッチンや、ペッタンや、カネゴンや、タイ坊が、いくつになっても皆さんと仲よしで、元気いっぱいでいてくれたら、私は、こんなに嬉しいことはありません。
 
 末筆となりましたが、本作の執筆にあたり、取材へのご協力と詳細な資料のご提供をしてくださった、津久見高校野球部OBの三浦保雄様と前嶋幸夫様に、あらためて御礼申し上げます。どうもありがとうございました。
                                クオ
 
 
         
 
 

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