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このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない

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土地を購入して10年、構想10年。そして、2002年7月に東シナ海を見渡す山に全室露天風呂付き離れの温泉旅館『石山離宮 五足のくつ』をオープンすることができました。オープンするま…
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記事一覧

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その20.

その20.『東京ウォーカーと九州じゃらん』 『東京ウォーカー』にラーメン店「辰巳」の記事が…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その18.

その18.『弟のノート』 深夜の誰もいなくなったショッピングモールで、 弟と私ふたりで、ま…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その16.

その16.『浦安のラーメン屋』 とにかくもう一度、足元を見直す必要があった。 金融機関を説…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その15.

『増価主義』 城先生との契約期間は、過ぎた。 第一回目の記念すべき事業計画書は実現する…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その14.

『捨てられた事業計画書』 「北海道と沖縄に観光客が多いのは、なぜだかわかる?」 ホテル&…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その13.

『せどや』 南フランスのエズ村は、別名・鷹巣村と呼ばれている。 鷹の巣は、雛や卵を守る…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その12.

『時代の変化』 日本でも古くからの温泉地などへ行くと、 「よくこんな急峻なところにつくったなあ」というような 自然の造り出した地形に素直に従った旅館に出会い、 感心させられることがある。 しかし、いつのころからか、 私にとってみればつまらない旅館が増えたような気がする。 それは、 日本が高度経済成長期に入った頃から増えたのではなかろうか。 つまり、 工務店が旅館を造りやすい状態の土地にして長方形の箱を造り、 そのなかに客室を入れ込むという効率優先の手法である。 実際

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その11

『ポジターノの夢追い人 Mr.Carlo Cinque』 ナポリの空港に着いたのは、もう夜遅くだったが…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その10.

『幸運の女神』 私は、25歳くらいの頃、1987年頃から、 天草の下田温泉一帯で旅館建設用地を…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その9.

『Hideaway』 その頃、アメリカでは、 「Hideaway:ハイダウェイ」という言葉がもてはやされ…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その8.

『部屋から海が見えますか?』 「天草で一番の御馳走の自信あります」のコピーと、 その実践…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その7.

土地の力あれは、たしか二度目のリスボンだったと思う。 滞在していたメリディアンを朝早く出…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その6.

『サグレスの国民宿舎』 ポルトガルにはポサーダ、 スペインにはパラドールと呼ばれる国営の…

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その5.

『リスボンの日本展』 私は、ポルトガル・リスボンのサンロケ教会で、 この教会にひと月滞在した天正遣欧少年使節団に思いを寄せてみた。 1582年に長崎を出港し、2年半後にリスボンに到着。 ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見したのは、 さらにそれから半年後であった。 帰国したのが1590年だから、8年間をかけた大旅行である。 出発時の年齢はわずか14,5歳であったという。 私は、リスボンの坂道をゆっくり走る路面電車を眺めながら歩いていると、 『日本展』と書かれた幕が下げ