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「ひぐらしのなく頃に」がもたらすトランス状態について

最近シリーズ全話視聴した、アニメ「ひぐらしのなく頃に」(以下「ひぐらし」)が、私にとって、トランス状態のような、シャーマニックな精神状態をもたらす効果があることについて、考察した(Twitterのつぶやきを集約した文の為、やや流れの悪いところがあるのを御了承頂きたい)。

「ひぐらし」による具体的な効果

まず、現れている効果、現象を挙げて行く。その一つとして、繰り返し「ひぐらし」の夢を見るというものがある。

夢の中で、「ひぐらし」のキャラが呼び鈴を鳴らし、その音で現実に目が覚め、寝ぼけて玄関まで行ったこともあった。「ひぐらし」の音楽を聞くと、自分自身が「ひぐらし」の世界の中にいるような錯覚を覚えるというのもある。

特に、「ひぐらし」のサントラを聞きつつ、本編に出て来るような山道にいる時に顕著である。そんな時には、少し頭が痛くなって、動悸を感じることもある。

他には、アニメ全シリーズを見てから、「ひぐらし」の漫画版を読んだら、(精神的な意味だけではなく、身体的にも)胸が痛くなったというのもあった。

はじめ恐怖の対象だった人物(竜宮レナ)に対し、シリーズ視聴を重ねていくうちに感情移入が深まって「仲間意識」が芽生え、その人物が惨劇を起こしても、そうした精神状態から救えなかったことへの悔恨や罪悪感、謝罪の念が湧くようになり、その結果、身体的にすら胸が痛くなったのである。

「ひぐらし」という異界

この三つの効果に共通しているのは、「ひぐらし」作品の鑑賞によって、現実の自分の意識に影響が出ているということだ。

夢の中の呼び鈴を現実と錯覚し、音楽を聞けば頭痛や動悸を感じ、現実世界にいるのに「ひぐらし」の作品の中にいるような錯覚を覚え、漫画を読んだら身体的に胸が痛くなった。

そして、完全にではないにせよ、現実の世界にいながら、意識は「ひぐらし」の作品世界という、一つの「異界」に入っている。夢が「異界」なのは当然だが、寝ぼけていたとはいえ、起きた後もしばらく呼び鈴を現実のものと錯覚していた。

音楽を聴いて山道にいる時は、現実にそのまま「異界」が重なっている。

「ひぐらし」の舞台「雛見沢」のモデルであり「聖地」とされる、白川郷の合掌造り集落内でも同様だ(風光明媚な場所ということと、あまりにも雛見沢そのままで興奮した為、頭が痛くなったりはしなかったが)。

身体的な痛みを感じたというのも、現実世界の肉体が、架空の「異界」の出来事に感応したとも言える。

要するに「ひぐらし」という作品に没頭し過ぎた結果、無意識レベルで、現実世界と架空の世界の境界が曖昧になり、一部区別がつかなくなっている訳だが、一種のトランス状態と呼んでいいだろう。

トランス状態とは

トランスとは、

「意識の変容による異常精神状態をいう。催眠によって表面の意識が消失し,心の内部の自律的な思考や感情があらわれる場合や,ヒステリー,カタレプシーによる意識の消失,狐やその他の霊に憑かれたとされるとき,または外界との接触を絶つ宗教的修行による忘我・法悦状態」

であり、また、

「トランス状態に入って,超自然的存在である神や精霊,死霊などと接触し,卜占,予言,治療,祭儀を行う呪術-宗教的職能者をシャーマンというが,シャーマンのトランスには霊魂が身体から離れて異界に移動し,神や霊と接触する脱魂(シャマニズム)」もあると、平凡社世界大百科事典にある。
https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/trance

今回の事象を振り返ってみると、「ひぐらし」への没入はまさに催眠である。頭痛や動悸、胸の痛みは、心の内部の恐怖感や罪悪感に由来するだろう。作品によって作られた架空のトラウマの一種とも言える。悔恨や謝罪といった日頃顕在化しない感情も現れている。

そして、異界。現実を「ひぐらし」の世界と錯覚している。夢では、「ひぐらし」のキャラと出会っている。「ひぐらし」の世界が異界とすれば、そこに住むキャラは神や霊と同じである。

今回の状態は、完全にそうとは言えないまでも、トランス状態、シャーマンのような精神状態と重なるところがかなりある。

なぜ今になって

しかしこれまで、小説、漫画、アニメ、ゲームといったフィクションの鑑賞で、ここまでの状態になったことはなかった。もっと若い頃には、これらのものにもっと夢中になった時期があり、その時は44歳の今よりも、はるかに感受性は豊かだったにも関わらず、だ。

もっとも、様々な経験を経たことで、若い頃よりトランスが惹起されやすくなった可能性もある。「巫女」と言えば少女を連想する人も多いだろうが、「魔女」ならば老婆を連想する人も多いだろう。

古今東西のシャーマンには高齢の人も多い。古層の文化を残す青ヶ島の巫女の条件は「閉経後」だ。

精神的ジェットコースター

が、ここでは作品そのものに起因する理由を考えてみたい。 「ひぐらし」といえば「惨劇」だが、まさそれこそが、トランス惹起に重要な役割を果たしていると考えられる。

衝撃的シーンを見た時、恐怖感等、急激に通常ではない精神状態に移行する。頭が痛くなることや、動悸を感じることもある。

また、単に惨劇があるだけではなく、幸福な場面や、感動的な場面との「落差」も、強烈な印象を残すことになる。

いわゆる「萌え」系の可愛らしい絵柄と、憎悪や恐怖に歪んだ表情、凶器や血のギャップ等も、同様の効果をもたらす。「精神的ジェットコースター」に乗っていると言ってもいい。

このようにして感じた激しい感情も、作品の鑑賞が終わりしばらく経てば、日常生活の中で薄れて行く。しかし、無意識には強烈に刻まれている。

その無意識に刻まれた感情が、睡眠時や、音楽・漫画鑑賞時などに、呼び起される。その時、再び急激に通常ではない精神状態に移行する。

神懸る惨劇

場合によっては、それはアニメ視聴時より大きなものになるかもしれない。「ひぐらし」はアニメだけでも80話以上となる為(その他原作のゲーム等多数のメディアで展開されている)、その視聴の間に感じた様々な感情が芋づる式に呼び起されるからだ。幸福感も恐怖感も罪悪感も感動も、通常ではない感情、精神状態が一瞬間にまとめてドッと呼び出される。

こうして、長大な作品を通じて蓄積された「落差」の激しい強烈な感情が、一気に呼び出されることで、トランスやシャーマンに近いような精神状態が惹起されるものと思われる。

そもそも、異常な精神状態が作品の重要なテーマである。その表現の完成度が高いのだろう。だから、深く作品に没入して、自ら作中のキャラの感情をトレースすれば、ある程度自分自身にも再現されるのは当然だ。作中でキャラが持つ感情の中には、惨劇実行時等、ある種神懸かりに近いものもある。

繰り返し夢を見、音楽を聞けば作品の中にいると錯覚し、現実に胸の痛みを感じるのは、惨劇のような衝撃的シーンが、無意識に刻まれ、それによって衝撃的シーンを視聴した際の通常ではない感情が、呼び起されるからである。

「死と再生」がシャーマンを生む

古今東西の宗教儀礼等を振り返ってみると、敢えて衝撃を受けるような精神状態をもたらすことを意図したものも多い。

例えば善光寺のお戒壇巡り。暗闇に閉ざされた地下通路を通り、「極楽のお錠前」に触れて、再び光ある世界に出る。

全国各地の霊山とされる岩山で行われる「胎内くぐり」等も同様の趣旨を持つ。

このような「死と再生」というテーマは、アニミズムのような原始信仰から一神教まで、まさに古今東西の宗教で重視されている。

宗教的な物語の重要なテーマでもあり、ダンテの「神曲」も地獄から始まる。

「死と再生」ほど、「落差」のある衝撃はあるまい。そのような衝撃が、先に書いたような、強烈な体験を生み、通常でない精神状態を作り出す。

そしてそこで何らかの「鍵」を獲得出来れば、その「鍵」を使って、特殊な精神状態を再現出来る。

例えばそれは、突如暗闇に突き落とされ、彷徨った挙句に手にしたモノかもしれないし、その時に聞いたり唱えたりした呪文や音楽、体の動きかもしれない。

そのようにして、「鍵」を使って繰り返し「法悦」を再現することは、信仰を深めさせるし、場合によってはシャーマンを生み出す。

そして「ひぐらし」に立ち返ってみれば、それこそ「死と再生」が、まさにテーマなのである。

しかも、その「死と再生」の表現は極めて強烈だ。そう思うと、「ひぐらし」がトランスを呼び起すのも、道理である。

積み重ねて来た「儀式」の体験

ただし、ここまで極力客観的分析に努めては来たが、あくまで主観的体験ではある為、誰もが「ひぐらし」によりそうなる訳ではないことは言うまでもない。

作品への没入や感情移入も個人や状況により差はあるし、その際の精神状態、また「鍵」が獲得されるか、それにより再現される否かも、様々だ。

私には、神社に神職として勤めていた経験がある。また、神社退職後も、たまに依頼によって神事を行う場合もあった。神道の枠内には収まらない、「魔女」達との共同の「祭典」も行ったことがある。

これらの中で、自分や祭典共同執行者の声や動きが、不思議な精神状態をもたらすこともままあった。忘我の中で昏倒しそうになった事もある。

またこうした儀式は繰り返しの催眠的なものと、突然の変化の、両方がつきものだ。それが精神の変容をもたらす。

儀式における不測の事態

さらに言えば、祭典や儀式は「ライブ」である。不測の事態が起こり得る。

例えば、大木を伐って建てた家のお祓いを頼まれ、祈祷した事がある。定められた祭式の通り、前に突き出した両の手に祝詞を持ち、奏上した。

その途中、天井から、小さいものではあるが、シャンデリアが落ちて来た。

そのシャンデリアは、奇跡的に、私の身体に少しも触れることなく、祝詞を捧げ持つ両の腕の間を通過し、床に落下した。

「祭典中は何が起きても動揺を顔や体に出すことなく続行せよ」

と言い聞かされていたので、何食わぬ顔で続行したが、内心は驚いたなどというものではない。

それこそ、衝撃であり、急激に異常な精神状態となった。今でもあの場面はありありと思い出せるし、神事を行う度に思い出す。

宗教儀礼を重ねて行けば、このようなことは大なり小なり度々起こる。それが「鍵」となり、儀礼の度に異常な精神状態を自分の中で再現するのだ。

それは結局、当人をトランス状態、シャーマンに近い精神状態に、入りやすい人間にして行く可能性がある。

先にシャーマンには高齢な事例も多いと書いたが、それは、こうしたことに起因するところもあるかもしれない。

今回、「ひぐらし」視聴によるトランス状態惹起について考察する中で、自分自身の、こうした経験も、「ひぐらしトランス」を発生させた理由の一つではないかと、思い至った。

そのような積み重ねによる土壌の形成が、「ひぐらし」により、急激に芽吹いた感触がある。

「現実」を裂く鉈

ここまで書いておいて何だが、日頃、私はかなりの程度唯物論者として生きている。

現代社会は、唯物論を前提としてルール設定がされている。ビジネスは当然だが、日頃の買い物等でもそうである。

神託があったと店に告げて、買い物がタダになる訳ではない。警察を呼ばれるのがオチである。

かと言って、100%唯物論者として生きている訳でもない。敢えて言うなら「唯心」か。

意識が現実を変えることはなくとも、意識によって認識する現実を変えることはできる。主観的には、精神によって現実は変わるのだ。認識次第で、現実世界が神話の世界にも「ひぐらし」の世界にもなる。

そういう意味では、神話の世界もフィクションの世界も同じである。高天原でも雛見沢でも大した違いはない。

そもそも、究極的には何が真に現実なのかは、分からないのである。「胡蝶の夢」の通りだ。

そのように、現実にいきなり鉈を入れ、現実が現実でない可能性を自分に示すのが、変性意識体験とも言えよう。竜宮レナの鉈こそ、現実を断ち割る鉈である。

どうやら私は、意識にその鉈を入れられたらしい。

オシマイ

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