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セピア色の初夢

障子紙を張り替える。はがした障子紙を床に広げる。目の前に広がる、はがしたばかりの和紙の紙片。ああ…書き初めがしたい。

硯と筆を金庫から取り出す。紙はある。硯もある。筆もある。墨をどうしよう。

私は床に両手と両膝をつき、這いつくばいになる。妻が私の背の上に登り、腕をのばし、天袋の戸を開く。戸の奥の闇から一瓶の墨汁を掴み、瓶、と音を立てて私の鼻先に立てる。貴重な墨汁である。(貴重な物は全て、天袋にしまってある…。)

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西ノ島という島をご存知だろうか。島根半島の沖合約65km、日本海に浮かぶ隠岐諸島の一角を成す島である。昔から漁業が盛んで、海の神を祀る由良比女神社がある。この神社の前に広がる由良の浜は別名「イカ寄せの浜」と呼ばれ、かつては年に数回、イカの大群が浜に押し寄せた。浜辺中でイカを手づかみし、家々へ持ち帰ることもあったという。

この由良の浜で捕まえたイカの墨袋から搾り取った”イカスミ”が、いま、私が書き初めに使用しようとしている墨汁、いわゆる”隠岐の海墨汁”である。血の繋がらないほうの従兄弟が西ノ島を旅行したときに買ってきてくれたお土産である。

(コウイカが)驚いたり恐れたりすると、ちょうど体の前に防壁を立てたように水を黒く濁らすのである
 上でアリストテレスが描写しているのは、イカが自分の身を守るメカニズムだ。攻撃を受けるとイカはインクのような黒い煙幕を水中に放出し、捕食者の目をくらましておいてすばやく逃げる。黒っぽい色はその主成分、メラニン色素から来ている。

 この天然のインクからつくられる深いウォームブラウンの顔料の名、セピアは、ギリシャ語でイカを意味するsépiaから来ている。古代ローマ時代から書字用インクとして使われ、19世紀まで一般に使われていた。

デヴィッド・コールズ(著),井原 恵子 (翻訳)『クロマトピア ―色の世界― 写真で巡る色彩と顔料の歴史』グラフィック社,p.89

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私は思案した挙げ句、硯に墨汁を注ぎ、筆先を墨汁を浸し、新年の抱負を、剥がしたての障子紙に書き散らし遊ばす。新年の抱負がどうしても自力で思い浮かばなかったので、Googleで「新年 抱負」で検索し、最上位にヒットしたウェブサイト上で推奨されていた文章を書いた。

妻も書き初めをすると言い出した。腕をまくり、西ノ島のイカスミで毛筆の先を濡らす。さてどんな言葉を書くのか。腕まくりしながら眺めていると、彼女は文字ではなく、絵を描き始めた。富士、鷹、茄子の絵である。彼女の名誉のため、絵の出来栄えについてはここでは触れない。

その晩、彼女は自作の富士、鷹、茄子の絵を枕元の壁に貼り付け、満足そうに眺めやりながら眠りについた。すると翌朝、彼女の昨晩の夢に茄子が登場したという。初夢に茄子である。めでたい。書き初めの成果で間違いないだろう。しかしその茄子は精霊馬だったというから、正月にお盆の夢とはこれいかに。こんな年明けも、きっとsépia色の想い出に変わるのだろう。

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