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立ち止まること、今年の目標

長い冬休みの最終日。妻は旅行中、予定はなく外は雨だし、一日中ベットでゴロゴロとしていた。
去年はそういう日は滅多になかった。そんな日があればチャンスとばかりに本を読むか書評を書いた。まあ、今日もなんとなく本を読んでいたし献本の書評も書いたのだけど、いきり立ってやるぞ!と思ってやったわけではない。
今年はそういう年にしたいなあと思った。「立ち止まる」こと、これが今年の目標かもしれない。

「動く」ことや「つながる」ことが善いとされがちな世間で、「立ち止まる」ことにはあまりいいイメージがないようだ。
例えば「自分探し」のために机の前でじっと考えるのは、最近での風潮では愚かなことされている。本当にやりたいことなんて、何かをやりながらでなければわからないからだ。「走りながら考えろ」はもはや現代人のスローガンであり、走っていなければ考えていないと断罪されかねない。

しかし、本当に「動かない」「つながらない」なんてことが果たしてあるだろうか?

むしろ人間は放っておくと動いてしまうのでは、と思う。というか嫌でも動かないといけない場面ばかりだ。仕事は待ってくれないし、家事は溜まっていく。それに、本当に読みたい本は自然と読むし、本当に会いたい人には頑張って会う。

むしろ難しいのは「立ち止まる」ことではないか。

確かに「自分探し」の例のように、一切動かないとしたら、ずっと自分のやりたいことはわからないままかもしれない。でも動いているうちに蓄積されたものが、動いているその瞬間には見えないとも限らないのだ。


話は変わるが、年末にラオスを旅行した。何か大きな目的があったわけではなく、むしろ「何もない」を楽しむためにラオスにした。しかしいざ行ってみれば、この街に来たら見るべき寺院やマーケットなどの観光名所があり、食べるべき料理があり、夕日を見るべきスポットもあった。どんな場所だって、動くための理由はいくらでも見つかる。

本当にこれが見たいのかを問う前に、僕らはついつい動き出してしまうのだ。これではどれだけ日程に余裕があっても時間が足りない。だから、どこかで踏ん張って、立ち止まって自分の心の声を素直に聞かないといけないと思うようになった。30年も生きたのだから、それが空っぽだということはないだろう。

旅行のお供に持っていった「悲しき熱帯」は、レヴィ=ストロースが行った南アメリカの探検調査の本である。未開の地への探検は、膨大な待ち時間がつきものだ。本筋の調査以上にページが割かれた数々の随想や考察を読んで、レヴィは待ち時間にちゃんと「立ち止まった」人のように感じた。


とはいえ、立ち止まるというのは難しい。生きている以上、完全に立ち止まることはできないので、現実的には「ほどよい」加減で動きを緩ませることになるだろう。千葉雅也氏がいうように「動きすぎてはいけない」のである(今年読みたい本です)。
「ほどよい」というのは、簡単なようで難しい。できる人には自然体でできるのだろうけど、ぼくの場合は、どっちかに振れすぎていないかと不安になる。「立ち止まる」とは、勇気がいる行為でもある。

でも、そういう不安を、2018年は肯定的に受け入れたいなと思っている。

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