私の両親のこと

これは、村上春樹が描いた小説ではなく、自分の父親のことを書いたエッセーである。

彼は、小学生時代に、お小遣い稼ぎのために友達のために夏休みの作文を代筆してあげたことがあり、その作文が教師に褒められた。とどこかで書いていた。

そう、彼は子供の頃から文章作成の才能があるのだ。話の内容は、個人的な話で、「村上春樹」が書かなければ、おそらく衆人の目にも止まらないような内容である。

書いてあることは、猫の話もあるが、父親の戦争体験がメインとなっている。「ねじ巻き鳥クロニクル」にも書いてあった。

個人の意思に関係なく戦争に3度も駆り出され、生死の境をさまよう経験をする。平和な時代に生まれた我々には想像もつかないような話である。

そして、昔の話なので、記憶が一部錯綜する。父が大学生であることを理由に、1941年秋に招集解除になっているにもかかわらず、父が京都大学に入学したのは1944年10月である。

これは、ありがちな話である。村上春樹の父の話を聞いたので、私の両親の話も書いておきたい。

私は高校生時代から親元を離れ、ひとりで生活した時間が長かったことから、父親と離れて暮らす時間が長かった。そのため、父の戦争体験を一切聞いたことがなかったので息子として却って不満に思い、数年前に父に電話して聞いたことがある。その時聞いた話は次のようなものだった。

私の父は、広島二中・二年生14歳の時、現在の廿日市宮内で勤労奉仕しているときに被爆した。宮内は爆心地から約14km離れていたため、幸いにして父は被曝による直接の傷害を受けたわけではないが、宮内から自宅の中山まで帰宅する途中で、広島市内を徒歩で通過したため、放射能を浴びて被爆者になったと聞いている。
その後先生の指示で海沿いに中山の自宅まで、徒歩で帰らされたと聞いている。

広島市内に入ってからは川に死体が浮いているのも見たと言っていた。

厳密にいえば、ピカドンがさく裂したときに、父は爆心地の近くにいなかったため、原爆手帳を申請する権利はなかったはずなのだが、当時の引率教諭の判断で、生徒は、ピカドンがさく裂したときに、爆心地の近くにいたことにして、全員申請して認められたらしい。

原爆手帳を持っていたおかげで、父はその後、死ぬまで病院での医療を無料で受けられることになった。

父の実家は広島市の北にあり、広島市内とは山をひとつ隔てているため、原爆の爆風や熱風による被害を受けなかった。父の実家は農家で庭も広く食料もあったため、原爆被害者を一時期多数収容していたと聞いている。


父は晩年白内障や胃がんの手術をしたが、いずれも結果がよく比較的元気に過ごしていた。
しかし、2012年2月に健康診断で末期のすい臓がんが発見された。2012年5月に広島大学病院で摘出手術を受けたが、その後がんは肝臓に転移したため、いくつかの治療の選択肢の中から肝動脈を経由した血管内カテーテルによる抗がん剤治療を選択した。
その後は病気続きで、2013年5月のゴールデンウイークには肝動脈流破裂を経験し危篤になったが、血管内カテーテル治療と輸血で一命をとりとめた。
しかし、最後はいくつかの病院を転院した後、2013年6月30日久留米中央病院で家族が見守る中で帰らぬ人となった。

父は亡くなる一か月くらい前に、「私がすい臓がんになったのは、被爆したからかもしれない。」と言っていた。14歳の時の被爆体験が、82歳まで影響するのだろうか。私にはよくわからない。

現在86歳の母は、その後一人で実家で暮らしている。母の面倒は、近くに住む妹が見てくれている。


母は時々用事もないのに電話をかけてくる。「欲しいものがあったら送ってあげる。」という内容が多いのだが、都会に住む私に欲しいものがあるわけではない。いらないというのだが、それでも何度か同じ電話をかけてくる。老人性痴呆の影響もあるのだろう。

毎日多忙な私はそのような母からの電話をつい面倒に思ってしまう。

そんな私は、長男として、母の葬式でのあいさつ文をもう考え始めている今日この頃である。

ところで、「猫を棄てる」の85ページあたりで、父との間で葛藤があったと記してあり、そのことが原因で父と20年以上顔を合せなかったとある。親子げんかであればどこの家庭でもよくあると思うが、20年以上顔を合せなかったとは、どこの家庭でもよくある話ではない。相当の理由があったはずであるが、村上春樹は理由を伏せている。個人的な話でもあるし詳しくは書く必要はないが、あらましだけでも書いてほしかった。