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20年前を振り返る(らされた)

今から20年前、池袋にある「すいどーばた美術学院」というところへ通っていた。油絵を描いていて美大芸大受験で2浪中だった。うちは兄妹が多いのでどうしても国立へ進学しなきゃいけない、というただそれだけの理由で2浪もしていた。これ以上は浪人できないからいよいよ大手の予備校へ行くしかないと、千葉から東京まで一時間半かけて通っていた。朝から晩まで絵を描いていた。みんなでつなぎを着て木炭や油絵具に塗れながら。

それから芸大受験にはまた失敗をして、結局当時一番学費の高かった東京造形大学に行くことになった。親の期待には答えられずに一番お金のかかるコースを選んでしまったと申し訳なく思うが、入ってからがまた苦難だった。

私は大学に入るなり、大学に受かるという目的しか持っていなかったことに直面する。油絵科は作家を育てるプログラムに近い。みんな現代美術に興味を持ってアーティストや作家を目指すような子ばかりだった。正直私は現代美術にそこまで興味を持ってなかった。しかも自分はそんなに絵がうまくもないし、描きたい絵もなんだかわからなくなった。

自分の居場所がすぐによくわからなくなった。高いお金をかけて苦労して入ったのに、自分がどうすればいいかわからなくなった。興味はなくてもできることをできる限りやろう。教職はまず取っておこう。2年生からコース分されるから、そこでは版画コースを選んで、できるだけ技術などを習得しておこう。

しかし私はどんどん落ちぶれていった。いつも自分が見出せずに不安だった。気がついたら男子に混じって麻雀ばっかりやるような生活になってた。そんな端にも棒にも引っかからない虚無な時代に出会ったのが雑誌の世界だった。

遡ってすいどーばたの時代。担当の先生はなぜか私に青山エリアでおしゃれな雑誌に載ってるようなインテリアのショップなどをみて回ってきなさいと指導してくれた。私の心はキラキラした。こんな世界があるのかと。なんておしゃれで素敵なんだろうと。青山には行ったことがない。なぜみんながいろんな絵画に夢中なこの空間で私にはそんな指導をしてくれたのだろう。

そして大学2年の中頃だったか教職の必修授業の中に「バウハウス」をまとめた資料を作るという夏休みの課題がでた。そこで私は予備校の時の先生に再び相談をする機会をもらった。するといろんな雑誌を教えてくれた。そこで覚えたのが「casa BRUTAS」や「Pen」などだった。バウハウスの歴史やプロダクトや絵画がいろんなレイアウトで紹介されている。めくる度に現れる様々なページに私の心が躍ってた。気がついたら私はデザインの世界に魅了されてワクワクしていた。

「あー私がやりたいのはデザインだったんだ!」

なんと、もう遅い。私は絵画科に入学してしまった。デザイン科ではない。絵画の生徒が取れるデザインの授業には限りがある。そしてあと数年で大学が終わるのに私はどうしたらデザインの道に進むことができるのだろうか。。。

するとしばらくして奇跡が起きた。

絵画棟のアトリエの壁に達筆・筆ペン・縦書きの何やら渋いビジュアルのお知らせが貼ってありたまたまそれに目をやる。

「デザイン事務所のアルバイトのお知らせ」

「なんと!デザイン事務所のバイトのお知らせ!?」「が、なぜこんなところに?」まるで私のために降ってきたような、目がまん丸になってドキドキしたのを覚えてる。そしてこの事務所はなんと私がいいなーと眺めていた「Pen」のデザインを手掛けていた「参画社」だった。

なぜこのような告知がデザイン棟ではなく絵画等に貼られていたのかというと、私の先輩に当たる卒業生の方がその事務所で働いていた関係で、うちの教授あてに学生のアルバイトの依頼のお願いがあったためだった。

私はすぐさま応募。すぐさま面接。八王子の奥〜の方から遥々目黒までやってきた。そしてそこから私のデザイナーへの道がスタートしたのでした。

* * *

なぜこの時代を振り返ったのか。昨日友人が写真を送ってくれたからだ。ボロボロでつなぎを着て格闘してる自分の姿だ。

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この時は何も見えなかったけど、点が繋がって今の私がここにある。この時の私を支えてくれた人たち。この時出会った仲間たち。何もないって嘆いて塞ぎ込んでた自分を振り返って、今こうしていられるのはみなさんのおかげだったんだと感謝をしたい。この頃は本当に感謝の気持ちが足りなかった。受け取るだけ受け取って何も返せなかった。

私の周りでも改めて過去を振り返る動きが盛んだ。何か考える時間を与えられてる。理由はいい。今はただ静かにそれと向き合いたい。そしてありがとうございましたとたくさん言いたい。

おわり

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