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POISON

子どもの頃、嫌だな嫌いだなと思っていたことが大人になると気にならなくなっていることはままある。
昔は食べられなかった、苦味の強い・臭いが強い・心地よい食感でないような食べ物がある日呑みの席で食べたら意外といけたとか、キャラクターが強烈で理解不能だから出てくるとチャンネルを変えてしまっていたようなテレビタレントのインタビュー記事を読んだら共感できる部分が多くて人間味を感じたりとか。
経験を積んだことで嫌悪の対象だったもののタネが割れて、何だこんなもんかと気にならなくなることがままあった。

それを感覚が鈍っただのと衰えのように扱う人間がいるが、感じ方が違うだけで気づいてはいるのだから鈍ってはいないだろう。
しかし、鈍りやすいものはある。それは気持ちのコントロールだ。
昔は引っ込み思案で言いたいこともぐっと我慢してきた人が、いつの間にか不平不満をまき散らす不愉快製造マシーンになっていたりしないだろうか。
言いたいことを言わないのは損だからと言いたい放題で、他人の気持ちなんてこれっぽっちも考えていない中高年が周りにいないだろうか。

その人たちも、もしかしたら昔はおとなしかったかもしれない。
社会に出ていろいろな経験を積んだ結果が今のその人かもしれない。

嫌いな食べ物が食べられるようになったとか、昔嫌いだった人が平気になったというのは、一般的に喜ばしいことであると言われるのに対して、言いたいことを言うようになったら煙たがられてしまう。
自分の都合ばかりを考えて生きている存在である人間の性だからと言われればおしまいだが、そんな思考の人間が大半だからクソなのだ。
均一化された思考の人間で溢れかえることの何がいい?
学校でも軍隊でもないのだから、群れの秩序や保身ばかりを考える人間は不要とされつつある。

しかし、閉じた思考の人間はまだまだ多数派だ。
彼らの呪縛から逃れるには、一人になるしかない。
どんなに小さくとも集団の構成員の中には前時代的な思考のクソがのさばっているのだから。
てめえらの気分を良くするために他の人間がいるわけじゃねんだよ。

我慢は良くない。
適度に発散しないと危険だ。
家族もいない自分は、いつ無敵の人になってもおかしくないのだから。
そんな風に追い詰められては結局インスタントな娯楽に逃げ込む毎日。
辛いなら逃げればいい?
そうしたいのはやまやまだが生活があるので…

中途半端な生きづらさを抱えた自分のような人間に対する救済措置がいつかできるのだろうか。
根性論はもう古い!なんて言っている人間も、俺のことを知ったらもう少し頑張りなさいとか言ってくるんじゃないだろうか。
表面的には価値観をアップグレードしたように見える世の中だが、その価値観を腹の中までインストールできていない人間で溢れかえっている。

「今こういうこと言うとパワハラなんだっけ?」
免罪符じゃねえよその言葉、バカが。
「これセクハラになっちゃう?」
その言葉によってセクハラであることが確定いたしました。

そんな風に他人の気持ちを軽視した発言ができるくらい満たされなくて、幼稚で、底の浅い人間であるから仕方ないのかもしれない。
しかし、そいつらに対して言いたいことを吐き出せば、周囲の人間の矛先はこちらを向いてしまう。
気持ちが悪い。

漫画や映画の悪役のように悪意剥きだしで吹っ掛けられたほうが断然清々しい。
しかし、そんなどうしようもない彼らも俺と同じことを思っているかもしれない。
言いたいことも言えない、だから我慢するけど思考は変化していないから漏れ出てしまう状態なのかもしれない。
時々漏れ出た言葉がちょうど気持ち悪くなっているだけかもしれない。

監視社会の最大の犠牲者は、時代についていけていない彼らなのだろうか。
そう考えると恨む気持ちも和らいでいく、かもしれない。
ご愁傷さまです。


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