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読書メモ・アーヤ藍編著『世界を配給する人びと 遠いところの声を聴く』(春眠舎、2024年)

あとで読む・第52回・アーヤ藍編著『世界を配給する人びと 遠いところの声を聴く』(春眠舎、2024年)|三上喜孝 (note.com)

本を読んだ第一印象は、「この本は若い人に向けた生き方の指南書だな」ということだった。
もちろん、この本で語っている5人も若い人たちなのだが、まだなにものにもなっていない若者、たとえば中学生や高校生や大学生、自分はこれからどのように生きていったらよいのか悩んでいる人たちに、こういう生き方もあっていいんだよと教えてくれている。斉藤亮平さんのシリア、大川史織さんのマーシャル、武末克久さんのマダガスカル、大平和希子さんのウガンダ、遠藤励さんのグリーンランド。一読したら、自分にはとてもまねできないと思ってしまう人も多いかもしれない。しかしじっくり読んでいくと、5人の語り手、いやそればかりか編著者のアーヤ藍さんも含めた6人の、人生の節目節目で思い悩み、その都度試行錯誤し、人とのつながりを大切にしながら、自分が納得する方向に進んでいったらこうなった、というその過程が手に取るようにわかる。別の言い方をすれば、自分の居場所を探していったら、自分(たち)から一番遠い場所にたどり着いた(にすぎない)ということである。

この広い世界に出ていくためには、社交性の高さが必要なのだろうか?それは違うと思う。自分を振り返ってみても、元来はどこへでも積極的に顔を出すような社交性とは無縁の人間であり、いまでもそうである。けれども15年ほど前の2009年、39歳のとき、1年という短期間ではあったが韓国に留学することを決めたのは、ふとした人との出会いがあったからであった。大事なのは一歩踏み出すための、ほんの一瞬の勇気であり、ふとした出会いを心の中で育てていくことなのかもしれない。
アーヤ藍さんは、こんなことを書いている。

「高校時代の一番の友達は映画だったかもしれない。一緒にお昼を食べる同級生のグループや感覚の近い仲良しの友人たちはいたものの、もともと一匹狼気質だったこともあって、学外で友人たちと遊ぶことは基本的になく、週に一度の部活の日を除けば家に直帰していた。そして夕飯を食べながら母と映画を観るのが、いつの間にか習慣になっていた」(196頁)

この体験が直接にいまのお仕事につながったというわけではなく、そこからさらにさまざまな体験を経て映画の配給・宣伝のお仕事に就くことになるわけだが、それにしても、中学生なり高校生なり大学生なり、そのときどきに置かれた自分の状況が、その後の自分の生き方を決定づけるとは限らないということを教えてくれる。ただ一方で、そのときに自分が感じていたことが芽となり、それが芽吹いて成長していくことも大事にしなければならない。

…と、読後感を試行錯誤しながら書いてみたが、適切な感想を書けなかったのは自分が年をとったせいだからだろう。だからこの感想のことは忘れてくれ、と小田嶋隆さん風にこの文章を閉める。

#世界を配給する人びと

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