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嫌いな言葉「男は度胸、女は愛嬌」

両親がよく言ったものだ。
「やっぱりな、男は度胸、女は愛嬌やで」
今でも、その思考は変わらないというよりも、もう変えられないのだろう。

私はこの言葉が嫌いだ。度胸とか、愛嬌という言葉自体にはこれと言って何も思わない。むしろ、好きな単語の中に含まれている。これが、男は○○とか、女は○○とか言い出した途端に嫌悪感すら感じてしまうのだ。

何故だろう…。夕べその事についてふと考えてみたのだが、結果的に私はそのような一辺倒な人間を好まないからだと思う。

例えば、とある男女がサバンナに放り出されたとしよう。そこでは自身を防衛する銃や槍などの武器はいっさい持っていない。このような状況下で、「男は度胸、女は愛嬌」のスタンスを貫き通すとしましょう。

男は度胸というならば、その男は裸一貫でサバンナの広野まで勇ましく突き進み、結果としてライオンなどに喰われて死んでしまうだろう。

一方、女は愛嬌というならば、その女はむしろ何の役にもたたない愚か者だ。

私が言いたいのは、男も女もなく人間として優れているのはどのような存在かということ。
ぬるま湯のような環境で暮らしているとその辺のことは疎くなってしまいがちだ。

私はそんなことを常日頃から考えているので、やはり中性的な人間にどうしても魅力を感じてまうようになった。これはビジュアル的に中性的ということではなく、精神的にだ。

このサバンナの例で言うなれば、人間に残されている唯一の武器は知恵と信頼と優しさだ。

ビビりながらも、草むらを這うようにゆっくりと突き進む注意深さと考察力。

いざとなれば全力で戦おうぜ!という、互いを同志として認めているからこそできる覚悟。

そして、大切な仲間を絶対においてけぼりにしないという人としての優しさ。

これが、男と女がどちらの役割を持つとかではなく、互いにそのような精神を持ち合わせている人間が魅力的だと思うのだ。

だから私は、「男は度胸、女は愛嬌」という一辺倒な言葉が嫌いだ。


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