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日本と日本人の物語

大人や新聞・テレビは嘘つき


私がJ-Storyを探求するようになったきっかけは、半世紀以上も前に原点があります。
中学生の頃と思いますが、よく“日本はアジアの小国”とする表現がありました。
第二次大戦において敗れたとはいえ、米英を中心とする連合国と数年に渡り戦争をした国を何故アジアの小国と呼ぶのだろうという素朴な疑問から、まず面積を調べたくなりました。
学校教材の地図帳の巻末に統計資料が載っていて、120ヶ国くらいの中で日本は51位(と記憶している)。
ヨーロッパで日本より面積の大きな国は3ヶ国しかありませんでした。
人口が多いことはわかっていましたが、面積も大きい方の国だったわけです。
“何だ、テレビや大人は本当の事は言わない”という訝しさが、その時から強く胸に刻まれたのです。
そして新聞やテレビが自国のことを良く言わず、つまらない国、情けない国、悪いことをした国という印象を与えようとしていることに反発を覚え、20歳を過ぎた頃から真実を知りたいと考えるようになりました。

私は元々反抗的な性格で、家族や社会に抵抗し、親の願うような人生は歩みたくない、社会の仕組みやルールの中でその歯車の一つになるのは御免だ、と思っていました。
つまり自分が属する集団に対し、反体制的な態度をとるタイプの人間です。
反体制派と言えば、普通は政府や伝統的な慣習に対して異議を唱え行動する人ですが、私にとっては政府や伝統的慣習に対して異議を唱える人達の方が体制派だったのです。
1980年代、私は20代でしたが、ほとんどのメディアや有識者と言われる人達は反日左翼思想に染まっていて、息苦しくて仕方なく、この勢力に抵抗しなければ自分も生きていけないし、国も滅んでしまうと痛感するようになっていました。
当時は日曜日の朝9時から、テレビ番組『竹村健一・世相を斬る』と『時事放談』を続けて観ていました。
『時事放談』は政局的な内容が主でしたし、保守系の政治討論番組と言えば、『世相を斬る』だけだったと記憶しています。

理屈より直感(直観)


私が若い頃に世の中や政治に対して抱いた印象とは“直感”によるものです。
人が信条としているものとは、直感(あるいは直観)によって得たものが根底にあるように思います。
直感(直観)は知識と知恵の作用により養われるので、その人の生きてきた環境は当然影響します。
同じ戦争を体験しても、場所や年齢や置かれた立場により戦後の生き方はそれぞれでしょう。
私の両親は昭和一桁生まれですが、戦争で親族や友人を失った経験はありませんでした。
そのためか戦前、戦中が暗い時代という印象はなく、戦争は悲惨なものとの実感はなかったようです。
そういう話を両親から聞かされたことはありません。
父は祖父がサラリーマンだった為、戦前、戦中、戦後の育ち盛りに食べる物がなく、いつも腹ペコだったとよく話していましたが、皆がそうであり、それを当たり前のことと受け止めていたのです。
戦争で家族を失ったり、家を焼け出された人は、もう二度と戦争は懲り懲りだと感じるでしょう。
しかし戦場で全く同じような辛い体験をした人達でも、戦後国を恨み反戦を唱える人もいれば、国の為に戦ったことを誇りに感じ、だからこそ国防の重要性を唱える人もいます。

人が掲げる信条は教育や理屈や体験によって獲得するというより、先祖から受け継いできた魂の叫びからなる“直感(直観)”によって根付くものではないでしょうか。
私は日章旗がはためき、国歌が演奏されると涙が出てきます。
理屈では説明できません。
しかし「日の丸」と「君が代」に何も感じない日本人もいますし、皇室が無くても良いと思っている人もいます。
生まれた後の環境も影響しますが、それ以上に生まれる前からの遺伝子に刻まれた情報がその人を決めるのだと思います。
全ての人は平等であるという人類の理想からすれば、皇室や王室は特権階級なので廃止すべきと主張する人がいます。
それは間違ってはいないと思いますが、大多数の日本人が(多くの外国人も)皇室は存続してほしいと願っていることも間違ってはいないのです。
白か黒か単純に割り切れない気持ちが心情の奥深さであり、人のやさしさの源泉と言えるのかも知れません。
文芸評論家の小林秀雄は、知識ではなく直観を発想の根拠としました。
“○○だから△△”という簡単な論理で本質は語れないと主張しました。
私も全く同感です。

一般によく語られるステレオタイプの日本人のイメージには強い違和感を覚えます。
私は自分が典型的日本人であると自認していますが、ステレオタイプの日本人のイメージが私自身とあまりにもかけ離れているので直感(直観)するのです。
日本人は同調圧力が強いと言う人がいます。
私は60数年の人生で同調圧力を受けたと感じたことは一度もありません。
他の何人かにも聞いてみましたが、やはり「ない」という答えでした。
おそらく、周りから同調圧力を受けたと感じている人はその人自身が同調圧力が強く、又受けやすいタイプの性格であり、謂わゆるステレオタイプの日本人的な人なのでしょう。
コロナ禍でマスク着用が義務化され、治まった後は個人の判断に委ねることになりました。
それでも多くの日本人がマスク着用のままの状況を見て、ある大学教授が日本人は同調圧力が強いと発言していました。
治まってもマスクをする人がいるのは、相手を不安がらせないようにと気遣う日本人の思いやりであり、同調圧力とは無関係です。
外す人もいれば着用する人もいて、とても自立していると思います。
外国では着用の義務が解除されると、全員がマスクをしなくなります。
それこそ決められた規則だから守っていただけだったのでしょう。
最近『カーネギー名言集』を久しぶりに読み返しました。
妻ドロシーが夫デール・カーネギーや古今の賢人たちの名言を集めた本ですが、多くの名言を日本人は実践していることに気付きました。
西洋人が求めていた生き方の答えが、日本文化の中に既にあったのです。
優秀な人物が登場すると“日本人離れしている”とか、外国の優れたところを称賛して“日本では考えられない”とか自虐的な表現をする人に対して、違和感を覚える日本人(特に若者)が増えています。
大谷翔平は人間離れしていて別の惑星から来たと思われていますし、日本の優れたところは他の国では考えられない、というのが本当のところだからです。
令和の時代になって、本物の日本人が復活する兆候を感じます。
戦争に負けて以降、自虐的な歴史観、国家観、日本人観を私たち自身が受け入れてしまいました。
“自虐的”というより“退廃的”という表現の方が合っているかも知れません。
これからは自らの直感(直観)を信じて、日本と日本人というものを正しく捉えていきたいものです。

微力ながら、J-Storyがその一助となれば幸いです。

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