坂口安吾に負けたことについて、断想


坂口安吾を岩波文庫で読んでいた。考えの合うところが多く苛立ちながら、しかし私より先んじているのが随所に見てとれた。暇を作りながら読んでいたが、ついに『教祖の文学』ーー小林秀雄批判の文章であるーーにて、負けを認めざるを得なかった。「負けたと思った」、のではなく、その文章を読んでいたときの体感を表すなら、負けたとしか翻訳できない、そういう次第である。負けたと呟いたときは静かに涙が溢れた。「負けた。負けたのか? 負けた……? 負けだよな……」なんてぼんやり思いながら、腹に空いた穴に手を当てながら寝ていた。

大学生のときには教授に喧嘩を売りまくっていたものだが、なにくそとリベンジに向けて調べたり読んだり考えたりしているうちに、言い負かされたときの内容の理解すら浅かったと知り、教授のいないところで独り敗北を味わったことがあった。しかし読書でこういうふうになったのはたぶん初めてではないか。色んな敗北があるもんだ。私は敗北のアマチュアだった。
議論ですら「カチマケジャナイヨ」なんて言う人が多勢なのは百も承知だし、「文章を読んで負けるってどういうこと?」程度にしか思わない人ばかりだろうが、負けは負けである。

坂口安吾は「愛」だの「肯定」だのわけのわからないことをしばしば書いているが、彼の否定には素晴らしいもんがある。私はこの点で、負けを認めざるをえなかった。認めざるをえなかった、ではないか。負けを認めてしまっていた。この「しまった」は、過ちを意味しているのではない。意識的にではなく、わざわざのそれではなく、ということだ。だからより正確には、負けを認めてしまったことを否定しがたいのである。意味は恣意より早い。

ここ十余年、私が多少は知るかぎりの著者の本について、酷い読みをしている他人を、かなり否定してきた。読みすらせずにテキトー言っている者のほうが多かったろうが、どうでもいい。著者のいない話題についてもそうだった。
見ることnoeinは、理論であれ実践であれ、重要である。人間というものについて、勉強というものについて、いかなる理解をしているか、いかなる理解を有しているかは、倫理的な問題である。ネットでなら、反省の猶予のある状態でなら、無難な選択を語彙や沈黙やなんやで為しうるものだが、そんなお行儀はどうでもよい。そのつどの考えるという実践を、そのつどの行動するという実践を、より良くするためには、自分の身の回りのものについての、自分の考えについての自分の見方を、なんなら他人の見方をも、離れなければならない。あらゆる他人の考えを足し算すればそれが最善、というわけではないのだから。あらゆる他人が間違っている、見過ごしているものだって原理的にありうるし、実践という面では、私が私の状況でそれを為すのであり、その点にかぎって言えば他人なんてどうでもよい。そして実践の場面では、いちいち考えている暇はないし、考えるにしても、突発的な事態に動揺していてはろくに考えられない。事前に色々と考え、そうして突発的な事態をも、それとして即座に受け入れ、どう対処するかを左右するのは、エートスの問題である。

そのようにしてやってきたわけだが、坂口安吾の小林秀雄批判は、生きた人、作者の生活、生活する作者を一顧だにしない、骨董品を愛でるかのような小林秀雄を、これでもかとやっつけていた。芸術、文学、作者である◯◯という個体、己自身のために、攻撃していた。或る種の事柄について攻撃しないではいられない性分というのはあるものだ。僭越ながら私もそうだ。昨今の、シルバニアファミリーのようなフワフワした言説は、クソ喰らえである。私はおそらく根が不良である。だから私は坂口安吾に負けうるものだった。

宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』を私は毛嫌いしているし、それは今も変わりないが、『教祖の文学』で引用された『眼にて言ふ』は、その引用仕方も含めて、素晴らしかった。引用とは、そのために文章を書いてこそのものであり、文章の補強だ箔付だのためではないのだが、坂口安吾の手になるこの引用は、まさにそれのために、そういうもののために書いているというのを、よくわからせる熱い引用だった。
美しかった。

正気か?