萩原朔太郎論ーその入場形式についてー

萩原朔太郎論ーその入場形式についてー

大学から大学院中退の頃まで、萩原朔太郎の詩や散文詩には、結構慣れ親しんで居た。しかし、萩原朔太郎論を発表したことはなかった。専攻は日本文学の近現代の小説、であったから、詩の論文を書いたことはない。それ故、詩を楽しく読むことはしても、それを論じ発表したことはなかった。ただ、私的に萩原朔太郎論は書いて居た、いくつか、それらは残って居る。今回は、萩原朔太郎論ーその入場形式についてー、として述べてみることにするが、どう方向づけられるかは、未定である。

何と言っても、萩原朔太郎と言えば、『月に吠える』だろう。詩としては、割と難解ではあるが、個々人によって、独自の読み方が出来る、読み手にとっては自由な詩の存在である。この、最初にして、云わば、一つの萩原朔太郎の到達点を、入場形式とすることは、危険過ぎるが、同時に、避けては通れない、『月に吠える』なのである。であるから、まずは、研究ということではなく、単なる楽しみとして、詩を読むのが、自然な入場形式であろう。

『月に吠える』を通読したら、その後、順番に、その後の詩集を読めば良いと思われるが、研究ということで、萩原朔太郎論とするならば、徹底的に、まずは『月に吠える』を、論ずるという角度から読んでみることが必要になる。ここで、この詩集が、非常に高度で、まさに萩原朔太郎の金字塔になっていることを、知ることになる。萩原朔太郎論者も、この『月に吠える』を避けては通れないことが、明瞭になって来るし、苦悩しながら論じなければならないだろう。今回は、萩原朔太郎論ーその入場形式についてー、として、まずは『月に吠える』を楽しみで自由に読むこと、を提示した形になった、論の運びとなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?