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つれづれ:蛹

平素よりお世話になっております。みなさまは茫然自失の毎晩を送っていらっしゃいますでしょうか。人間は人格に連続性があると信じるからこそ、酒に酔った時の「失敗」は罰せられるし、生の結果に意味を求める。
24人のビリー・ミリガンのように、御一行の中でも待機部屋があって、みんな渾然一体となってる中からフィクサーの脳髄「わたし」の人格がこっちをステイして、あっちを目覚めさせて、ペルソナを使い分けるうちの一つ、このnote。だが、私には意識の「感じ」がないから、24人のビリー・ミリガンとは厳密には違って、待機部屋は渾然一体、どろどろの蛹みたいなもの。わたしの時間は止まったままだけど、動き出そうとしている。まさに蛹乙女です。
今が今を追い越していくからこそ、今を今を今を今を目一杯。えぷぷ御一行と、申します。

ペルソナから連想すれば、Twitterなどはまさしく仮面舞踏会である。流行も仮面も日によって目まぐるしく変わっていく。

「アライさん界隈」、私は結構好きでよくヲチっていました。「最近は駆逐されて「アーニャbot」の方がよく見かける」というのをよく聞くが、「ア界隈」は確かに今でも存在する。

でも、そこでいう「ペルソナ」は先ほどの挨拶で使った意味とは逆な気がする。ガワを被ってはいるが「自我を出す」ために使っている気がするのだ。だから、私みたいなディズニーランドで耳着けられない人にはできないと思っています。深夜徘徊はできるけど。
それはそれとしてディズニーは行ってみると非現実を味わえるので良いと思います。私自身TPOに応じて外に出す人格「ペルソナ」に謎のこだわりがあって、特に天井と空の境界にいる時、外界で受肉体になっている時は、完璧を常に求める。

逆に、自室にこもっているときは結構「無」である。外に出ないと結構無から有を、0から1を生み出すことができない。自分を肉塊と呼ぶのも、この「死んでいる、無である」という「感じ」から来ている。その時の主観について監視カメラとか走馬灯の時間旅行とか呼んでいて、思い返すと意識=「感じ」の記憶がないと感じるのに肉塊でない時は「感じ」と呼ぶのは興味深い。まあこの先を生きるためには意味づけしてかなきゃいけないってのはあるな。感情抜きに、この活動可能域の波が一生治らないならそれはそれで結構絶望的だし、たとえ予測不可能でも「病気」を認めて付き合って治療していかなければいけない。「鬱がひどい」とはいっても何もできなくなるだけで肉塊な場合が多い。-120、めちゃくちゃ悲しいとかなるのはまだ生きている。実際は何も感じていない、時間感覚が現実感が全くないだけの時も多い。

コンカフェとかも、非現実を味わえるような(だから、嬢の個人情報とか容姿には興味がない、容姿が良ければおお〜とはなりますが。)世界に没入できる「コンセプトカフェ」であることを求めているのですが、やはりディズニーはその極地だろう。でもある程度ゲストの存在も求められていると思う。ついでにトプ画はメンクリにも行けず虚無の1日の終わりの焦燥感に狂い、何かなさなければと思って行った代償性メンクリです。ここは有名店ですが、少なくとも内装がコンセプトに結構凝っていて、看板も精神科っぽかったし(そこでチェキを撮るのが一番人気だそう)、ICU部屋があったり、神経伝達物質を500mlビーカーや注射器ショットで「処方」してくれました。

Twitterは、インターネットは自我を出したい人、ペルソナを使い(分け)たい人、どちらも受け入れてくれます。



「アーニャbotは高偏差値」という文言を今日Twitterで見かけた気がします。おっしゃる通り、「博士課程の」が有名ですが、「〇〇高校の」なアーニャbotを見かけることが多いですね。でも、「アーニャはこんなこと言わない」と添削されていた。これはなんだか、「飛影は〜」の人や(例えがアレだが)完璧に振る舞おうと演技する私みたいに、完全にペルソナを作って(作ろうとして)いるわけではなく、ガワを被って自我を出しているように感じる。まあ、だから某テーマパークのゲストみたいなものだ。


学校などの所属にアイデンティティを付与して蛹の外側を固めながら、なお何ものかになりたいものが、「〇〇な」の前置きの部分をしっかりと定めた後、アーニャやアライさんというガワ=「界隈」の所属を、自我を出すための仮の外殻、まあ隠れ蓑?として用いて中身を固めるために=自我を出すために使っているように感じる。それで、蛹の外殻、仮称・アイデンティティがなくなった時、羽化して旅立っていく。
アーニャは知らんけど、「アライさん界隈」の横つながりは結構密接で、互いを結構肯定したりリアルの悩みのリプを送り合ったりしています。しかれどクローズドであり、その中でカップルになったりとか、あまりに倫理を逸脱しているとかでみんなから自治の学級会をうけたりする。
で、例えば自立とかまあ「フェネック」=恋人ができたとか、そんなかれらの人生一区切りでアカウントを「卒業」=羽化したりする。蝶の道みたいに未来には被るガワは異なれど同じような外殻をもつ=同じ轍を踏むものも現れたり、渡り蝶みたいに一旦旅立ってまた戻ってきたり、SNSという同じ世界の中で転生したりもする。これはなんというか、クローズドであって、でも卒業後も戻ってこられる(OBどうしで話題に出すとか、現役生とインターネットで繋がったり)場所である大学のサークル垢とかにも似ていると思います。


ここでは詳しく語りませんが、Twitterをやっている受験生は必ず目にするであろう(普通に、多くの場合見ない方がいい)「浪人界隈」は「多浪丸」とか、「芥川留之介」とか、一見キャラクターの名前をもじって、ガワを被っているように見えます。
しかし、実際は名前だけで、エンカを積極的にしたり、かと言ってちょっと厭世的というか、「キラキラ現役生」や「社会通俗」への逆張りが発達していますね。ちょっと倫理とかを逸脱した「過激派」がいたり。うつの時の私で言う手に入らない存在=「健常者」への逆張りみたいな感じです。

その世界では、やっぱり競争相手という意識が強いのか、なんだか雰囲気はもっと人狼とも違うけど、上記の二つとも違っている気がします。
名前だけ、とさっき書きましたが、匿名性を隠れ蓑にして、いかに目立つかとかも重要視されてる気がします。でそれにさらに逆張る人もいたり。でも逆の逆はまた別の逆張り。順のキラキラ現役生じゃありません。

競争相手、目標はもちろん何かを成し遂げるために大事ですが、一度挫折を味わって自己肯定感を折られ、強く強く押し込められると、ストレスから身を守るためにだんだん不感になるというか、現実味を無くしてより強い刺激を求めていくのでしょうか。でもそこから一部の人は、善悪はともかく「尖ろうとして」いますね。本当にツイートなど見ていてもエネルギーに溢れていたりセンスがある方もいて、結構ここの明暗は別れます。不思議ですね。
ここにクリエイターの「超人」の精神を感じると共に、うつ病の自責→他責のストレスモデルも感じます。まあ、どちらの場合も社会は「浪人界隈」や傍観者に限るため、極めて小さいですが!

「鬱クワガタ」は結構ネーミングセンスが好きですよ。ポカポカの公園とかでしたいですね。


本当は「テニスの王子様」(通称:テニプリ)と「アレン様界隈」の親和性について書きたかったんですが、今日はここまで。

最近また不眠過眠が入れ替わって非常にまずいです。いい時間だし広義今日は仮眠してしまったので、文章を書いた勢いでここから支度して朝から勉強しようかなとちょっとワクワク。まああまりまた自分を追い詰めて殺さない程度に1日1日の密度を濃くせねば。今日はメンクリも入れてるし。体を動かそうと、健康になろうと、羽化しようと頑張ってるわけだ。ふーん、やるじゃん。
_____________アムロ、行きます。

PCを腹に置いてベッドの上で壁にもたれて書いている今の自分が「鬱クワガタ」のポーズであることに気づいた。


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