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島へ行く

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こんなご時世だけど、少し旅に出た。

行き先は東京・伊豆諸島。三宅島に行き、その帰りに伊豆大島へ寄った。

伊豆大島といえば、東京から高速船に乗れば2時間でつくけど、三宅島はそれよりもう少し遠い。大型客船に乗って、夜出発して明け方に着くような距離だ。東京からは200km弱離れている。

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はじめに断っておくが、新型コロナの影響で移動を控える人が多い中、この状況下の旅をよく思わない人がいることは理解している。

その一方で、マスクをしたり適切な対応を取れば、旅行するだけで感染したり、そこから重症化するリスクは高くないというのもまた事実だ。

確かに離島の多くは医療体制も万全でなく、また高齢化が進んでいる地域も多いので、ある程度気をつかう必要はあるだろう。でも実際にはコロナのリスクだけが存在しているのではなく、その他にも命を落とす病気などのリスクはたくさんあって、それは今この瞬間もそれ以前も変わらない。

それなのに、新型コロナだけを必要以上に恐れる風潮が存在しているように感じる。

結局のところ、物事の一部分にだけ過剰反応してしまうことは、人の不安感をいたずらに煽るだけであまりいい結果にならない。全く外出しないのか、あるいは無制限に出かけるかという極端な議論ではなく、個人にとって適切なラインを見極めることが大切だ。そしてその基準はみな同じではなく、人によって異なるのではないだろうか。

「自粛」や「外出を控える」という考えが間違いだとは思わないけど、それを利用して他人の行動を制限することはやめたほうがいい。その言葉は、やがていつか自分自身の自由を締めつけてしまうかもしれない。

この状況下で旅をしたことで、さまざまなことを感じた。

そして今振り返ってみると、この「コロナ時代」に旅をすることとはいったいどういうことなのか、この前例のない時代に生きるひとりの人間として、大切なことを考えるきっかけになったと思っている。

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三宅島についたのは朝5時過ぎだった。夜の東京港を出発してから7時間ほど経っていた。

この小さな島には24時間営業のコンビニもなければ、朝早くから開いているお店も少ない。もちろんそんな場所で早朝からできることは多くない。

島の多くの宿には「休憩」という制度があり、フェリーで着いてからしばらくの間、空いた部屋を文字通り仮眠・休憩用に貸してくれる。僕が泊まる宿にはあいにく空き部屋がなかったので、借りてきたレンタカーの中でしばし仮眠を取ることにした。

朝5時なのに、港にはたくさんの車が止まっている。レンタカー屋さんもこの時間からちゃんと開いていた。島の生活は、どうやらフェリーの時間と密接に関係しているようだった。

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三宅島には何があるんですか?と聞かれたら、少しだけ考えて「青い海と火山」と答えると思う。いや、むしろそれが島にあるもののすべてといっても過言ではないのかもしれない。

僕の旅の目的は、かつて写真集で見た、この青い海と火山の景色を見に行くことだった。

島の歴史は火山の歴史であり、島の生活は火山活動に影響されてきた。ちょうど20年前の2000年(平成12年)、島内の火山・雄山が大噴火して全島民が島外へ避難することになった。

彼らが再び島へ戻ることができたのは、噴火から4年以上も経った後のことだ。

噴火前に3000人以上いた島の人口は、帰島時1000人近くも減っていたという。火山島特有の厳しい環境と向き合わなければいけないこの地では、他の離島と同様に人口減少が進んでいる。

そんな島の成り立ちは、繰り返されてきた噴火の歴史そのものだ。噴火したかつての火口に水が溜まれば、そこは池となる。溶岩が作り出した大地に木々が生い茂れば、そこは豊かな森になる。あるいはそこに、溶岩で覆われた荒涼とした大地が残される。

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かつての噴火の凄さを伝える場所が、島の西側にあった。僕がこの島でどうしても訪れたかった場所のひとつだ。

1983年(昭和58年)の噴火で、島の西側の集落に溶岩が流れ込み、建物が焼失した跡が保存されている。当時使われていた小学校と中学校の建物は、3階まで溶岩に埋まった状態で残された。前年につくられた学校のプールは、たった一年使われただけでその役目を終えた。集落は一瞬にして溶岩に飲み込まれたという。

当時の記録をつたえる案内板には、地元の人の素早い対応のおかげで、一人の命も奪われることなく避難に成功したと書かれていた。壮絶な歴史だ。

そんな歴史をかみしめたあとで、もう一度周りを見渡す。そこは、かつてここに小さな町があったとは想像できないほど、黒い溶岩の大地がただ一面に広がるだけの場所だった。

三宅島は、まぎれもなく火山の島だ。

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島にいる間、ひとりでよく海を見に行った。

東京の街中で日々生活していると、夕焼けを見る機会が少なくなる。そんな生活を少し離れて夕日を毎日見ることができたのは、僕がこの旅に出てよかったと感じることの一つだ。

誰もいない砂浜、港の堤防の上、フェリーの甲板の上、気がつけばいろいろな場所から僕は夕暮れの海をながめていた。

夕日自体の沈むさまも美しいのだけど、夕日に照らされたものもまた美しく感じられる。そしてそんな光景を見つけると、僕はついうれしくなって写真を撮ってしまう。

都会に住んでいる僕にとって、海に沈む夕日は日常の中で感じられない光景の一つだ。そんな光景に出会えたとき、やっぱり旅に出てよかったと思えるのだ。

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島から島へ船で移動する。大島まで再び客船に乗った。

きっと、もっと長い日数を費やすことができれば、もっとたくさんの島々を回っていろんな島同士の文化の違いを肌で感じることができるのだろう。残念ながら僕には十分な時間がない。

月並みな話題だが、旅をしているといろんな人に出会う。最初は話しづらいなと感じていた人が、別れ際にとびっきりの笑顔であいさつしてくれたり、思いがけないほどの親切を受けたりすることもある。新しい人と出会うことは少し緊張することでもあるけど、何が起こるかわからない分とても楽しいことも待っている。

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その一方で、今回の旅ではいつもと違うと感じる場面もたくさんあった。「島外の人おことわり」という、「コロナ対策」の張り紙を貼ったお店の数々だ。

少し前に、とある県で「東京都民おことわり」と書かれた標識が話題となり、大きな批判を呼んだ。それと似たような光景を今回はいくつかの場所で実際に目にした。

医療体制が整っていなかったり、コミュニティが小さく濃くなっていく離島では、コロナに感染するデメリットが、都会に住む僕たちの想像以上に大きいのだと思う。病気自体を恐れたり、あるいは感染したかもしれないという周囲からの目を恐れたり、さまざまな要因によって「未知の病気」への過剰な恐れがつくられていくのだろう。

その結果として生まれたのが、「島外の人おことわり」なのかもしれない。こうした可能性を想像すると、僕はこれらの「排他的な」言葉の数々を頭ごなしに、表面的に責める気にはなれない。

もちろん一人の来訪者として残念に感じるし、共感することは難しいのだけど、そうせざるを得ない離島ならではの事情というものも、少しは理解できるようになりたいと感じている。

たとえ共感はできなくても、事情を理解することはできるようになりたい。旅を通じていろんな場面に遭遇することは、自分自身の考え方やモノのとらえ方を試す作業でもある。

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あまり時間がなかったので、大島には1泊しか滞在できなかった。次の日の夕方の船で東京に戻ることにした。

今回の旅は、新型コロナの流行が始まってからはじめての旅だった。細かいところを見てみると、コロナ以前と比べてずいぶんと勝手の違うことも多かった。

GoToキャンペーンの問題など、旅行関係をとりまく環境はいろいろと難しくなっている。しかし、旅の本質はコロナの前でも今でもあまり変わっていなくて、旅をすることで多くのことを新しく体験し、自分自身の考え方を書き直していくことにあるのだと感じている。

もちろん友だちと遊びに行ってはしゃいだり、楽しい思いをするだけの旅も悪くない。でも日常と異なる場所にひとりで足を運び、じっくりと何かを噛みしめる旅だって楽しい。あらゆる物事がオンラインやバーチャルに体験できてしまう世の中だからこそ、実際にその場所へ足を運ぶことの価値は高まっていると感じる。

改めて今回の旅は、コロナ時代に「移動する」ことの難しさや、旅をすることの意義について考えるきっかけとなった。まだまだ移動が完全に自由ではない世の中だけど、近い将来、行きたい場所に自由に行けるような世の中になってほしいと感じている。

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