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虚無の深淵を覗く単眼の神人が担う未来 〜今泉真也 写真集『神人(はみんちゅ)の祝う森 沖縄やんばる・森と水の神話』に寄せて

大型写真集『神人の祝う森 ~沖縄・やんばる 森と水の神話~』(2020年9月発売/300㎜×215㎜×13㎜/100ページ)http://www.shinyaimaizumi.com/index.php?Photo%20Exhibition

 同じ山に何度もなんども登っていると、その山から見える風景だけでなく、その山でこれまで見えていなかった事柄が次第に増えていく。一度だけの登山では山道脇の珍しい高山植物、途中の山道から見える絵はがきのような山の姿や、頂上からの展望が印象に残ることだろう。ところで同じ山道をほぼ毎日、登下降していると、まったく目にも留まらなかった小さな草木、キノコや苔、昆虫、動物の糞とその気配、そして岩石や気流の流れ、空気の匂いに気がついていく。何度も見つづけること、観察することで、この世界が複数の微細な連なりによって構成され常に動いていることがわかってくる。そしてわかればわかるほど、人の感受性は摩滅していて、本来見えて当然の自然からこれほどまでに切り離されているのかということを自覚する。


 同じ山を何度も登るように、山も海も森も好きな写真家・今泉真也は沖縄・やんばるの若夏(うりずん)の鬱蒼とした森とその川へと十年の歳月を費やして何度もなんども通いつめ、そこで半ば暮らしながら、無数の命と水の染みわたる微細な宇宙を見いだしていく。同じ視点で森に囲まれた集落の人々の生活と祭りを記録し、森にまつわる人々の言い伝えや昔話とともに、森の宇宙に重ねられていった。そうした経験と記録は長い時を経て一つの書物として構想され、さらに十年という歳月ののちに『神人(はみんちゅ)の祝う森 沖縄やんばる・森と水の神話』という写真集として結実する。単なる森と水の写真を集めた写真集ではない。沖縄の森と水と人を繋いできた神話的宇宙観とそのイマージュを写真と言葉によって伝えようという大著である。


 表紙の写真は「美しいしずくに飛び込んでいのちを落としたマルトビムシ」とある。写真家もまたこのマルトビムシのように美しいしずくである森に飛び込んでしまった。そしていのちを落として新たな命を授かり、新たな目を得た。マルトビムシを内包した新たなしずくはまるで何かの目の形に見える。その新しい目をもって自然を見、人を見る。写真を撮る。その写真を見れば最初は当惑するような奇妙な感覚に襲われる。私が見ているのではなく、自然の側から見られているのではないか? と。何度も写真を見直すうちにそう思えてきた。人が森と水を覗き込んでいるのではなく、その逆、自然が私を見ているという「深淵」の写真なのだ。


「怪物と闘う者は、闘いながら自分が怪物になってしまわないようにするがよい。長いあいだ深淵を覗きこんでいると、深淵もまた君を覗きこむのだ」(『善悪の彼岸』より。F・ニーチェ著、中山元訳)


 写真家はニーチェの言う怪物になってしまったのだろうか。違う。ここで言う怪物とは、神と切り離された人々の間の憎しみと争いのなかで己を含めた生の世界を破壊していく存在、その魂は虚無という深淵に飲み込まれている。写真家は自然保護の立場からそうした人の思惑による怪物的世界と長い間、闘ったはずだが怪物にはならなかった。森の目を得たからだ。写真家は十年、森と水と人を見つめ続け、見つめられ続けた。そして森と川は2007年にダム底に沈む。写真集の森と水はもはや現実には存在しないが、写真という回路を通じて深淵から人間をじっと見つめている。それは告発ではなく、人が自然をじっと観察するように、自然が人をじっと観察しているかのようだ。地元の人々とて森と川をダム底には沈めたくはない、その思いは写真集の最後にはっきりと示されている。それでも人々を取り巻く怪物的社会の業により森と水は虚無の深淵に飲み込まれた。その悔恨や逡巡もまた写真に表れている。


 写真集の最後には昔の沖縄に存在した神人(はみんちゅ)の役割について書かれている。「村人として暮らしながら豊作豊漁を願う折などには、自然と人々、今生と後生とをつなぐ役割」、それは今、今泉真也という写真家が担っている。過去と同様に、現在、そして千年先の未来、森と人が再び繋がり、祝うことができるよう、森と人を写真で繋ぐ役割。人間という虚無の深淵に捕らわれた怪物と森を再度、繋ぐ役割を単眼で担う。見る者の特権を森と水に沈めた単眼の神人は、これからも写真という魔術によって複数の視線に見られるという経験をもたらすだろう。

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