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シリーズ 「アラブナショナリズムとエジプトとスエズ危機」 第1回 スエズ運河

はじめに

 今回連載を始めてみた「シリーズ アラブナショナリズムとスエズ危機」ですが、これは以前自分提供した資料を再編集したものをベースにしています。なぜこれをnoteに公開をし始めた理由は2つあります。

 1つ目は単純に自分が大学生活において中東情勢に深く興味を持ち取り組んでいるのでそのおさらいもかねて掲載をしています。また、そろそろ自分の学んできたことを一度形にして行こうかなと思ったからです。

 2つ目としては昨今の中東情勢はイスラーム主義的な側面が強いのでそこを起点に語られることが多いです。しかし、近代アラブの覚醒はまず最初にアラブ民族主義的な潮流が強くありました。その後汎アラブ主義は分裂をし、主導していたエジプトの離脱やイラク政権の崩壊、サウジのアメリカへの屈服から力を失ってしまいました。その背景があってこそのパレスチナ問題や現在のイラン問題ですこのような歴史的背景を抑えながら見るとより分かりやすく昨今の情勢を見ることが出来ます。なのでニュースを見るときの一助になればよいかなと思いたかが学部生の駄文ですが掲載してみました。

 前置きはこれくらいにして今回はスエズ運河そのものの歴史を簡易的に振り返っていきたいと思います。

 スエズ運河の歴史(WW2以前)
スエズ動乱を語る前にまずは、スエズ運河の成り⽴ちそのものを知らなくてはならない。古代にもナイル川から紅海まで達する東⻄⽅向のファラオの運河と呼ばれる淡⽔運河が存 在したが、ここでは近代におけるスエズ運河について述べる。
スエズ運河と呼ばれる場所は現在のエジプトのシナイ半島の丁度付け根の部分に位置する。ここは北に地中海、南に紅海を望みユーラシア⼤陸とアフリカ⼤陸の境⽬にもなっている。

(現在のスエズ運河)

 スエズ地峡は地図でも⾒れば分かる通り、ここを船舶が通⾏することが出来ればヨーロッパからインド洋の進出は容易にできる。この重要性については早い段階からヨーロッパ各国は認識していた。酒井(1976)によれば「17 世紀には、ドイツの数学・神学者として知られるライプニッツがスエズ地峡での運河の開削をフランスのルイ 14 世に提案したことがある。それは実施されなかったが、ナポレオンはイギリスのインド⽀配に打撃をあたえるためにエジプト遠征を⾏ったが、その時は具体的な運河建設を検討している。それらの情報からフランスではスエズ地域に関する関⼼が強く、レセップスの事業につながった。」4とこのようにフランスは特にイギリスの植⺠地経営への楔としてもこのスエズ地峡を重視していたようだ。
フランス⼈のレセップスはこの様なナポレオンの運河計画に強い影響を受けて、1854 年と
1856 年にエジプト副王サイード・パシャからスエズ運河建設に関する会社設⽴の許諾を得ることに成功する。また、エジプトはオスマン帝国の傘下でありながらも独⽴志向が強く、このこともスエズ運河建設の許諾への後押しをした。⼀⽅でイギリスはこの運河構想を当時は、現実性が低いものとして代わりに紅海からの積荷はスエズで陸揚げを⾏い、鉄道輸送でアレキサンドリアまで輸送、そこからまた海路で輸送という構想を持っており、レセップスの運河構想には消極的であった。むしろ逆に宗主国オスマン帝国の許諾を得ていないなど外交的な圧⼒を加えたり、運河建設での労働者の扱いが奴隷そのものであるとしてスエズ運河建設の会社を公式に⾮難したりと妨害を繰り返した5。
更に当時のスエズ運河会社の国際的な評価は⾼くなく、当事者のフランス以外は懐疑的な⾒⽅が強かった。
様々な財政的な困難や技術的な問題を解決して、1869 年スエズ運河が開通する。開通直後はスエズ運河会社の予想船舶利⽤量を下回ったもののスエズ運河開通が世界に与えた影響は、⼤きなものだった。ここまで、イギリスは⼀貫してスエズ運河建設を妨害し、更には運河式典に⼀切の王族・⾼官を派遣しないなどスエズ運河に対して否定的な⽴場に⽴っていた。だが、実際に開通してみればスエズ運河の利⽤船舶の国籍はほとんどがイギリス船籍のものだった。⼤分後年のデータになってしまうが、1914 年時点でさえイギリス船籍はスエズ運河利⽤船舶のうち約 66%を占めている6ことからもイギリスの海上交通におけるスエズ運河の重要性が、⾒て取れるだろう。当時のイギリスの植⺠地経営の重要な拠点であったインドへスエズ運河を経由し通⾏すれば、従来の喜望峰周りの航海と⽐べて半分の時間で済むとなれば当然の帰結と⾔えるだろう。イギリスにとってスエズ運河は⾃らの影響外にあるが、イギリス経済の⼼臓という⽴ち位置にあった。
 この運河から上がる収益の⼀部と南北戦争による世界的な⼩⻨の価格⾼騰からエジプトは多⼤な利益を享受していた7。この収益を鉄道敷設など始めとしたエジプトの近代化政策へとつぎ込んだ。しかし、南北戦争は終結し⼩⻨価格は下落さらにエジプトには不平等条約の影響で、関税⾃主権がなく⾃国の貿易政策へ⼤きな制限があった。また、急速な近代化のために借款による歳⼊に頼った放漫財政という構造的⽋陥も抱えていた。これらの要因から⼀気にエジプトは財政⾚字状態になり、⼀転借⾦国家に転落してしまう。このことから時の副王イスマイールは、財政改善のためエジプトの保有するスエズ運河会社の株式を売却することになった。この情報を⼊⼿した当時の⾸相ディズレーリはロスチャイルド家より株式購⼊の資⾦を借り受け、独断で株式を買収しイギリスは筆頭株主になった。8これを契機にスエズにおける収益は、株の⼤半を占めているイギリスとフランスが享受し9、エジプトはこれから疎外されるという構図になった。更にエジプト政府そのものも財政破綻により、閣内に英仏⼈を⼊れエジプトは、両国を始めとしたヨーロッパ各国による財政管理下に置かれることになった。
 1882 年この様な状況に対して、エジプトでは傀儡化したトルコ⼈⽀配層の打倒と排外主義、⺠族主義を掲げたウラービー⾰命が勃発する。10結果エジプト⼈はウラービー政権の樹
⽴に成功する。しかしながらこの⾰命で起きた暴動を⼝実にイギリスは軍事介⼊し、実質保護国にした。1914 年にはオスマン帝国に対して、エジプトの保護国化を通告し、名実ともにエジプトはイギリスの保護国となる。1936 年にイギリスがスエズに軍を駐屯することをエジプトに認めさせた上で、結んだエジプト=イギリス同盟条約によってエジプトの主権が認められ独⽴を果たす。だが依然として、イギリスは軍事⼒によってスエズ運河を事実上管理し続けこれは、イギリス軍が撤退する 1953 年まで継続されることになる。
ここまでが第⼆次世界⼤戦以前のスエズ運河の⼤まかな歴史である。スエズ地峡という 中東の⼀地域が、運河という付加価値を与えられたことによって急速に重要な地域となる。その流れをまず理解していただければ⼗分である。これ以降のスエズ運河に関する流れは、世界情勢を交えながら後述する。


4 酒井傳六『スエズ運河』新潮新書、1976 年。
5 もっともスエズ運河建設の労働環境は良くなく、エジプトでの強制労働であるコルヴェが使⽤されていた。実際に死者が多数出る過酷なものだった。
6 「⼀九⼀四年スエズ運が通航船舶」『地學雜誌』公益社団法⼈ 東京地学協会、27(8)、1915 年。p.708-709。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/27/8/27_8_708/_pdf/-char/ja(最終閲覧2018/08/25) 

7 当時エジプトは⼩⻨の⽣産量が多く、南北戦争で⼩⻨の需要が世界的に⾼まっていたため。
8 これに関しては当時グラッドストン(19 世紀後半のイギリスの政治家)等から批判を受けている。
9 フランスは当時普仏戦争に敗北した直後で、イギリスの影響⼒のほうが強かった。
10 スエズ運河建設の過酷な状況から対仏、対英感情は悪化していた。

参考⽂献
・酒井傳六『スエズ運河』新潮新書、1976 年。
・⿅島正裕「植⺠地⽀配の政治経済学 : イギリスのエジプト統治,1882-1914 年」
『⾦沢法学』、29 巻、1・2 号、1987 年。file:///C:/Users/gonnt/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bb we/TempState/Downloads/AN00044830-29-1-165%20(1).pdf (最終閲覧 2018/08/25)
・佐々⽊雄太『イギリス帝国とスエズ戦争』名古屋⼤学出版会、1997 年。
・君塚直隆「グラッドストンとスエズ運河 Gladstone and the Control of the Suez Canal」
『史苑』、52 巻、1 号、1991 年。file:///C:/Users/gonnt/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bb we/TempState/Downloads/AN0009972X_52-01_04%20(2).pdf (最終閲覧 2018/08/25)
・著モルデハイ・バイオルン 訳滝川義⼈『イスラエル軍事史 終わりなき紛争の全貌』並⽊書房、2017 年。
・著ハイム・ヘルツォーグ 訳滝川義⼈『中東戦争 イスラエル建国からレバノン侵攻まで』 原書房、1986 年。
・⿃井順『中東軍事紛争史』第三書館、1995 年。
・池⽥美佐⼦『ナセル アラブ⺠族主義の隆盛と終焉』⼭川出版社、p.104、2016 年。
・⼭根学『現代エジプトの発展構造』晃洋書房、1986 年。
・⽩⽯光他『中東戦争全史』学習研究社、2002 年。
・⼟屋 ⼀樹「エジプトの農業開発政策と農業⽣産の推移」『現代の中東』⽇本貿易振興会アジア経済研究所、2003 年。
http://hdl.handle.net/2344/511 (最終閲覧 2018/10/01)
・マーティン・ギルバート『アラブ・イスラエル紛争地図』明⽯書店、2015 年
・⼭⼝直彦『エジプト近現代史』明⽯書店、2011 年




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