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シリーズ 「アラブナショナリズムとエジプトとスエズ危機」第4回 ナセルの覚醒、エジプトの覚醒

はじめに

 王政は末期症状を見せており、エジプトには新たな指針が必要とされていました。その選択肢の中には、2011年のエジプト革命で政権を握った「ムスリム同胞団」や共産主義そして汎アラブ主義がありました。当初革命は王政打倒だけを目標にしていましたが、政治の停滞から軍が政権を運営することとなります。その中で頭角を現していた天才ナセルが徐々に力をつけついに大統領になります。これが中東に与えた影響は計り知れないものになっていきます。

*写真左 向かって左側ナギブ右側ナセル
*画像左 エジプト共和国国旗、シリアとの合併まで⽤いられた。
 1952 年エジプトにおける⾰命の下地としては⼤きく 2 つの屈辱があった。
 1 つは 1942 年の「2 ⽉ 4 ⽇事件」である。⼤戦中北アフリカにおいては、ドイツ軍元帥ロンメルがイギリス軍に対して優勢に戦いを進めていた。反英ムードの⾼まりを⾒せていたエジプトではイギリスからの開放を求め親枢軸のデモがアレクサンドリアやカイロで起こっていた。このような情勢下で、イギリスは国王の宮殿を精鋭部隊によって包囲した。そのうえで時の国王ファルクールに対して、国王の退位を受け⼊れるか⽐較的イギリスに協⼒的なワフド政権樹⽴を受け⼊れるかの⼆択を迫った。結局国王は要求に屈し、ワフド政権の樹⽴を受け⼊れた。この出来事はエジプト国⺠や当時⻘年将校であった若きナセルを始めとした軍⼈達に衝撃をと屈辱を与えた。
 2 つ⽬の屈辱は第⼀次中東戦争である。この戦争において、エジプトを始めとしたアラブ 諸国軍がどのように敗北したのかは第2回や第3回の記事でも触れた。そのような背景に加えエジプト軍の装備は 不良なものが多く、後に不良品をわざと購⼊し、国王の取り巻きが私腹を肥やしていたこと が発覚する。20軍⼈にとって武器は、⼰の命を預ける最も基本的で重要なものだが、これが 不良なものしかもわざと私腹肥やすためとあっては怒りが噴出したのは当然のことである。国王に対する批判は表⽴っていなかったが、これを機に国⺠世論の批判は王政そのものに 向かい出す。腐敗を続ける王政府⾃体に対する失望と怒りが国内に蔓延し始める。
 1952 年のクーデターを主導した「⾃由将校団」21は、第⼀次中東戦争の翌年 1949 年に結成され、クーデターの実⾏を⽬標に組織された。この結成当初からナセルは中⼼⼈物であった。この⾃由将校団22はクーデター時においては、100 名を超えるメンバーと数多くのシンパを抱えていた。この中には⻘年エジプトや共産主義者、ムスリム同胞団、ワフド党に関連するものも多く存在した。このように⾃由将校団は様々な思想を持つ者がいた。⾃由将校団の⽬的はあくまでも腐敗した王制度の打倒であり、政権運営は意図していなかった。
 ⾃由将校団は確実にエジプト軍内部での勢⼒を拡⼤し、それは将校クラブ執⾏委員会の執⾏部の選挙で候補として、ムハンマド・ナギブを押した。選挙では王党派の候補に対して圧勝し、⾃由将校団の影響⼒の強さを如実に表す結果となった。これに⾃信を深めたナセルらは具体的なクーデター案を 1952 年の春から⽴案し、ナギブを名⽬的な指導者として組織に招き⼊れた。7 ⽉半ばに国王によって将校クラブは解散させられ、更には国防⼤⾂による将校の検挙という情報が舞い込んできた。そして、ナセルは計画を前倒してついに⾰命を実⾏に移すことになる。
 クーデターは円滑に進みアレキサンドリアやカイロにおける軍⾸脳部の捕縛やラジオ局や通信施設、王宮、官庁を制圧し流⾎は殆どなかった。1952 年 5 ⽉ 23 ⽇早朝にはラジオを通じて、国⺠に⾃由将校団によるクーデターが知らされた。これまで不満を募らせていた国⺠はこれを歓迎し、中には街頭でクーデター⽀持を叫ぶも者いた程である。
 同年 5 ⽉ 26 ⽇にはファールーク⼀世に対して、国外退去と退位をあわせた最後通牒が伝えられ、抵抗する⼿段を持ち合わせない国王はイタリアへと亡命をした。王位⾃体はまだ幼い息⼦が継承するものの 1953 年の「共和国宣⾔」で、正式に王政が廃された。しかし、⾃由将校団は前述したように政権運営の奪取を意図しておらず、あくまでも腐敗した王政府の打倒が⽬的であった。そのためクーデター後は政治家や⺠衆による政権運営に対して期待していたようである。だが、この期待はクーデターから半年たっても混乱から⽴ち直れないエジプト政界に裏切られる結果となった。このような流れの中で、⾃由将校団は単なる軍⼈による政権打倒のための組織から⾰命政府の執⾏部としての意味合いを持ち始めるのであった。
当初⾃由将校団は「六原則」なる新たなるエジプトへの構想を⼤まかにでは有るが、持っていた。
① 帝国主義の終焉
② 封建主義の排除
③ 独占的資本主義の阻⽌
④ 社会公正の実現
⑤ 強⼒な軍隊の創設
⑥ 健全な⺠主主義の復活
以上のような原則は以後政権を担う⾰命政権に⼤きく影響することになる。
 まず、はじめに⾏われた改⾰が農地改⾰である。従来の政権下では農地の⼤半は⼤地主が所有し農地所有の不均衡からこれに起因する経済格差が深刻化していた。王政下においては農地の私有化が認められ、徐々に外国⼈による⼩作農からの⼟地買い上げや為政者に近い有⼒者に対する農地の払い下げなどを通じて、農地の集中化が⾏われていたのである。議会においてもこれを是正するために農地改⾰案が提案されるものの否決されてしまっていた。⾰命政権はこれに対して政府の補填ありの農地再分配や旧王族に対する農地の賠償なしの接収を⾏った。
 ここまで順調に改⾰を進めてきた⾰命政権であったが、⼤きな課題に直⾯する。1 つは1952 年8⽉ 12 ⽇デルタ地⽅を中⼼としたストライキである。ミスル紡績⼯場において労働者⾰命の名の下において、ストライキを決⾏し会社側と衝突した。この暴動に対して⾰命政権は軍事⼒によって鎮圧し、多数の死者を出すことになった。
 2 つ⽬は遅々として進まない政治改⾰であった。旧体制の代表格的存在であったアリー・マヘルは農地改⾰をはじめとした旧体制からの変⾰を拒絶した。このことから⾃由将校団と対⽴することになった。また、既存の政党の腐敗は改善される兆しは⼀向に⾒えてこなかった。
 このような情勢下に対して、⾰命政権はムスリム同胞団以外の既存政党や労働組合を統合した「解放戦線」と呼ばれる単⼀組織に統合した。さらに軍による 3 年間の軍政統治を宣⾔し、政界にも実効⼒を持った。これらの⾏動に際して、⾼級将校や有⼒旧体制派の政治家を追放した。このように旧体制を名実ともに排除、王政⾃体も廃⽌し、共和制の樹⽴を宣⾔初代⼤統領にはナギブが就任した。
 このように⾃由将校団を中⼼とした⾰命政権は、旧体制を着実に排除した。⼀⽅で政権内 での⽅向性はいまだに統⼀されていなかった。その為上述したストライキに対する対応や ムスリム同胞団の⾮合法化を巡って、⾃由将校団の内部においても対⽴が起きた。名⽬上の 指導者であったナギブとナセルの対⽴が始まる。ナギブが「軍は基本的に政治に関与するべ きではない」として議会制⺠主主義の復活を主張したのに対し、ナセルは「議会制⺠主主義 への移⾏は旧体制を復活させるだけである」と主張し、軍主導による急速な改⾰を⽀持した。
 3 ヶ⽉にわたる紛糾の末、軍と解放戦線を掌握したナセルが全権を握った。(⼭⼝ 2011)このように⾰命政権内において、急進改⾰派と守旧派・社会主義者が存在した。この内部闘争に結果的に勝利したナセルは、⾃由主義者や社会主義者を中⼼に政権運営の主体から排除し、ナセル主導下の政権を確⽴した。 1956 年 3 ⽉には⼥性の参政権を認めた新憲法が発表。6 ⽉には国⺠の圧倒的⽀持を受けて施⾏された。同時にナセルの第 2 代⼤統領選出も⾏われた。 このような改⾰の連続の中で、⾰命政権の旧体制の打倒と並ぶ⽬標であったイギリスからの⽀配の脱却についても動き始める。第⼆次⼤戦後悪化した財政に⽐して巨⼤な軍事費の削減を望むイギリスと中東におけるソ連の勢⼒拡⼤を望まないアメリカの思惑が絡み合う複雑な状態であった。結果的に「スエズ運河基地に関するイギリス・エジプト条約」が締結され駐屯英軍は、20 か⽉以内に撤退加えて、イギリス軍基地は 2 年以内にエジプトに返還されることになった。1956 年 6 ⽉ 13 ⽇にはイギリス軍は完全に撤退し、エジプトはイギリスによる軍事⽀配のくびきから解放された。続いて、旧体制からの懸念事項であったスーダン統治に関する懸念もエジプトからの独⽴という形で落ち着きを⾒せた。23
 結局⾰命は王政にとどめを刺し、⾃由将校団を基盤とする軍事政権によって維持されていくことになる。 

20 不良装備を安く購⼊し、横領を⾏っていた。
21 このような将校による秘密組織は古今東⻄作られるもので、旧⽇本陸軍においても「⼀⼣会」などが著名。
22 ちなみに将校とは軍隊におけるエリート幹部のことであると理解して良い。(現場の叩き上げの将校も存在するが)              23 スーダンはイギリスとエジプトのいわば⼆重統治状態であった。スーダンとの統⼀もエジプトでは強く主張されていたが、スーダン出⾝のナギブの失脚や急速な改⾰の中で、失速した。

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