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釜床美也子氏レクチャー「手伝う体験をつくる」

東京大学建築生産マネジメント寄付講座主催のレクチャーシリーズ「つくるとは、」の第一回「生活文化」が、豊田雅子氏(NPO法人尾道空き家再生プロジェクト代表理事)と釜床美也子氏(香川大学創造工学部講師)の両名をゲストに迎え、2021年7月19日に開催されました。本稿は、釜床美也氏による講演(研究・活動紹介)の内容から構成したものになります。

香川大学の釜床です。「手伝う体験をつくる」と題しましたが、手伝うというのは、いわゆる本職ではないという意味です。本職でなくとも屋根が葺ける体験を生み出したいという思いでこの活動を始めました。そのなかで、現代的な相互扶助の建築生産ができないかを考えています。

対馬の石屋根にみる相互扶助の建築

大学院生時代の研究を紹介します。対馬は朝鮮半島との間にある小さい島で、蔵の屋根に石を載せる文化が残る地域です。最初は素朴にどう石を載せたのかが気になり論文テーマに選びました。現地調査をするなかで、強風対策や延焼防止のために石を葺いていたことがわかりました。江戸後期に石の屋根葺きを始めたそうです。地元にヒアリングをすると、地元のお父さんたちが葺き方を教えてくださいました。

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「カセイ」と言うそうですが、石屋根を葺くことはこの集落の男性であれば誰もが経験することでした。みんなで沢に行って道具ではがして、大きな石をかついで帰り、石を背負ったまま緩い丸太のはしごを登って載せていたそうです。村中の相互扶助があれば3日で1軒分の屋根ができたそうです。昭和30年代まで、20~30軒ある集落の蔵の屋根は相互扶助で葺き替えられていました。椎根という一番大きな屋根石のある集落の相互扶助の様子を写した写真集が出版されています。牛に石を引かせて、屋根の上を滑らせるようにして石を載せていたそうです。村中の人が総出で屋根を葺いていたことを、写真とお話で紹介いただきました。

相互扶助で、日本の民家は屋根を葺いたり土を塗ったりしていたのだと思います。建築をつくることに素人が相当に関わっていた。最近、民家の研究をしている研究者たちが口をそろえて言うのが、「相互扶助で建築つくった経験者がいなくなってきた」ということです。古い民家を訪ねると、10年ほど前までは親父さんがその家のつくりにとても詳しかったですが、最近は家の人に聞いても何も返ってこないことも多く、状況が変わってきています。住宅の寿命が短いと言われますが、自分が生産に関わらなければ愛着も湧かないですし、修繕して長く住むという発想も生まれにくいと思います。

四国の茅葺の研究

四国に来てから四国の茅葺について調べ始めましたが、そこで直面したのは四国では茅葺がそのまま残っているのは文化財の屋根ぐらいになっていることでした。一般の民家には既に見られなくなっていて、職人さんを探しても見つからない。唯一、紹介してもらえたのが徳島にはこの人しかいないと言われたれた茅葺職人さんでした。

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重伝建の落合集落で指導をする技術者の方という印象でしたが、定年までは保険屋さんだったといいます。家が集落最後の茅葺の母屋だったので、手入れをしながら葺き方を覚えたそうです。昔は何キロも離れたカヤ場からカヤを採っていたそうですが、今は家の前の休耕田にススキを植えてカヤ場にしているそうです。そこで育てたススキを修理用のカヤとして納屋に蓄えていく。そんな維持管理をされていました。カヤは一度に大量に必要なわけではなく、「差しカヤ」といって悪い所だけ新しいカヤに取り替える手法があります。「差しカヤ」だけで50年もたせている屋根もあるそうです。茅葺き屋根の寿命はメンテナンス次第なんです。家人が葺き方を知っていることは強みであり、それが建築の寿命を延ばすことにもつながることを実感しました。

もう一人のキーマンは、香川で最後の現役の茅葺職人として紹介を受けた松葉さんです。もともと設備工事の職人さんで、退職後に茅葺を始めた方です。よくよく聞くと、お父さんが茅葺職人で、手伝いをしながら葺き方が分かるようになったそうです。このように、四国には高知県に親方が一人いるだけで、今はもうみんな兼業なんだということがわかりました。それぐらい茅葺は習得しやすい工法だとも言える。それが驚きだったわけです。

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松葉さんに見せていただいたのが、まんのう町の町指定文化財の「四つ足堂」という小さなお堂でした。このお堂は下福家という集落の共有財産で、みんなで協力してふき替えをしてきたそうです。しかし文化財の屋根になると、他県から職人さんがやってきて、いつのまにか屋根を葺いて帰っていく。知らないうちに修理が終わっている。それではダメだということで、地元のお堂は地元で修理するんだとおっしゃるわけです。どうするんだろう、ということで、カヤの採集について行きました。すると地元の皆さんが準備万端で、休耕田のススキをおもむろに刈り始めるわけです。昔から地元には茅葺のお寺があったそうで、皆さん慣れた手つきでどんどんカヤを集めていきます。午前中で必要な分を全部刈り終わる早業でした。

本職の茅葺職人ではないけれど葺き替えができる。指導者が一人いて、手伝いの皆さんは指導こそできないけど、やり方は知っているという存在です。こうした技術者の中間層と呼べるような人たちの知恵を見たわけです。今は文化財を葺くような特別な職人さんと、何も知らない素人の二極化が進行しているように感じます。茅葺は一般の人には縁のないものになりつつある。問題は、この中間層がどんどん失われていることではないかと思います。

茅葺の茶堂との出会い

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そんなときに紹介を受けたのが、愛媛県の茅葺の茶堂でした。地元からは瓦に葺き替えたほうが楽じゃないかと言われているが、なんとしても茅葺で存続させたいのでどう説得すべきか、と相談を受けました。茅葺の茶堂は、愛媛県南西部の南予周辺では1集落に1棟あるようなメジャーな建物です。道筋にぽつんと建っています。集落の寄り合いや葬儀をしたり、食べ物やお茶を出して旅人をもてなすような建物でした。寺社というよりも民家に近い素朴な建物です。1間四方から1.5間四方の吹きさらしで、誰もが立ち寄りやすいお堂です。

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かつては四国の南西部に広く分布していましたが、今では愛媛県の西予市と、高知県の梼原町と津野町に16棟残るのみとなっています。昭和53年の調査では52棟が茅葺のまま残っていたそうですが、これをなんとか残したいという依頼でした。でも地元の皆さんからしたら、子どもや孫の時代にはお荷物にならないように今のうちに耐久性の高い瓦に葺き替えたいということなんです。

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高知のお堂の一つを紹介します。唯一お茶を出す文化が残っているところです。知らずに行ったのですが、朝7時に写真を撮っていると、お父さんが「ちょっと」と呼び掛けてくれてお茶を出してくれました。お堂の中で地域についてお話を聞くという貴重な経験で、お堂の存在意義を目の当たりにしたわけです。

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そのときに、もう一つ気になったのが棟仕舞いです。雨の通り道に束にしたカヤを伏せることがありますが、ここの棟は少し斜めになっていて、素朴な形をしていました。職人さんがやるともっとピシッとなります。聞くと、地域の人たちで数年に1回この部分だけやり直しているということでした。高齢化で屋根の施工は職人さんに任せるようになったそうですが、棟は傷みやすいので自分たちで定期的に修理しているそうです。茶堂のような小さな建物の小さい修理であれば、足場を組まなくても梯子で大丈夫ということで、地元の人たちで修理しているそうです。

この屋根を見たときに、この地域にだけお茶で接待する文化が残っていることと、屋根の修理の習慣が残っていることは、偶然の一致とは思えませんでした。よくコミュニティが弱体化し、高齢化が進んで茅葺が維持できなくなったと聞きますが、実態は逆で、茅葺をやめてしまったから、コミュニティの結束が薄れていった側面もあるんじゃないかと思うのです。茅葺は手間がかかりますが、その維持管理の共同作業を通して地域への愛着や、地域文化への理解が醸成される。そのように感じたんです。

茶堂の茅葺屋根をその地域で葺き替えていく

それで、西予市の皆さんに連絡して、みんなで屋根を葺く実践の場として、西予市の茶堂の存続を考えられないかと持ち掛けました。まず、誰が指導をするかが問題になりますが、隣の梼原町に自分一人でも茅葺の茶堂を守ることを宣言していた最高の親方がいたので、心配はありませんでした。むしろ、難航したのはカヤ場のほうでした。他県で購入したカヤを持ってくるのでは、近場の休耕田にカヤを自ら植えて採取するような、たくましい発想や文化の継承できないと思ったんです。

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かつて四国のカヤ場は山のてっぺんにありました。山の麓の集落に茶堂があれば、そこは必ず山のてっぺんに自分たちのカヤ場を持っていました。しかし今では各集落のカヤ場は既にないので、なんとか近場で調達できないかと考えたわけです。今でも山のてっぺんにススキ野原の景観が広がる場所が、四国中央市と、裏側の三好で見ることができます。ここでススキを刈れないかと思いましたが、現在では写真愛好家がススキ野原を撮影しくるので、それを刈られちゃまずいということでした。どうしたものかと思っていましたが、西予市に標高1,400mの大野ヶ原という地区があって、そこで刈らせてもらえることになりました。演習林だから好きなだけ刈ってよくて、足りなければ自分たちのススキを提供してもいいとまで言ってくださいました。これでカヤの心配がなくなり条件が整いました。

今後は茶堂の茅葺を守るために大野ヶ原でカヤを刈り、相互扶助の手伝いは西予市全域から募集しようということにしました。技術を担保する職人さんは、隣の高知県から来てもらう。西予市は東西に長く、茶堂が集中している地域から大野ヶ原までは車で1時間ぐらい、梼原までは40分ほどです。地理的に近い場所でこのサイクルを回すことができそうでした。1年に1棟の葺き替えを続けていけば、手伝いをした西予市市民の皆さんが、いつか指導者になってくれたらいいなと、そんなことも考えて折り込みチラシで募集しました。12,000枚を折り込んで、「本気で取り組んで頂ける方」「3年間続けて参加できいる方」を明記して募集しました。徹底的に全ての工程を3年間通して体験するプログラムを計画しました。今年で3年目、3棟目が間もなく竣工します。

土日開催と地域の協力

公募で集まった7名は20代から60代と年齢層がばらばらで、実はこれがとても重要でした。土日のみの開催として、仕事を持つ皆さんが兼業や趣味で茅葺きに取り組む。ここに到達目標に置いたんです。サラリーマンが参加できる仕組みじゃないと続かない。今の田舎の農家さんは兼業が多く、平日は皆さん忙しいんです。なので、土日だけで屋根を葺けるプログラムにしました。

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茅葺茶堂の素晴らしいところは、その小ささでした。5日で軒先と隅と棟という技の要所を全部体験できるコンパクトさでした。だいたい250~300束ぐらい必要ですが、自分たちで刈ったカヤと大野ヶ原からの応援でなんとか地元のカヤが準備できました。1年目は採取したカヤは倉庫を借りて乾かしていて、運ぶのが大変でした。2年目からは刈った山でそのまんま乾かすという伝統的な方法を教えてもらい楽になりました。景色のいい大野ヶ原で、山の中で乾かせば万事解決でした。

やってみて分かったことを二つ紹介いたします。一つは、カヤが軽くて扱いやすいことです。里道の脇にあるので、道がせまく車が横につけられないなど、ざらにあるわけです。それでも投げて運べますし、女性でも運べます。みんなで運んでいるうちにどんどん仲良くなるわけです。運ぶ主体は講座の人たちが中心ですが、かなり地元の方が手伝ってくれました。

二つ目は、茶堂が地域にとって大事な建物だったことです。たとえ瓦に変わっていても、地元の人には大事な建物で掃除も行き届いていました。地域にとって大事な公共の建物だから、地域の方が手伝ってくれた。1年目では、車を駐めた道路からはるかかなたの里道の脇に茶堂が建っていて、そこからどう運ぶか困っていたら、地元の皆さんがバケツリレーで運んでくれました。土日開催は受講者のためでしたが、実は地元の方にとってもよかったのです。土日開催にしたことで地元の若い勤め人の皆さんが参加できました。

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今まではどちらかというと技術的なことを中心に研究してきましたが、実際に地元の方と屋根を一緒に葺いたことで、棟が完成したときの喜びを体感できてよかったと思っています。あと13棟残っているので、あと13年は続けられそうです。でも13年経つと、最初に葺いた茶堂がふき替え時期を迎えるので、これはエンドレスに続けられる活動なのではないかと思っております。その頃には、私も含めて、参加した皆さんにとって西予市の茶堂のある地域が、第二の故郷になってるんじゃないかと思います。


構成:和田隆介(わだ・りゅうすけ)
編集者/1984年静岡県生まれ。2010–2013年新建築社勤務。JA編集部、a+u編集部、住宅特集編集部に在籍。2013年よりフリーランス