見出し画像

古典を古典として楽しむ能力

LGBTだったりポリコレだったり、少しずつ啓蒙されてちょっとずつ世界が変わっていくのは嬉しい。ただでさえ他人とは分かり合えず傷つけあうのだから、不要不急の加害被害は減っていってほしい。

でも、その弊害が一つだけある。世界のタブー基準が古い時代に作られた古典を純粋に楽しめないということだ。

古典は古典たりえる理由があって残っている作品だからもちろん面白い。それに、現代ルール的にNG、なんてアナクロニスムで芸術が意図的に消されていくのは違うと思っている。

とはいえ、人種、性別、搾取問題等々、「当時はありふれていて問題されてなかった描写」に引っかかって話が入ってこないことが年々増えている。

例えば、落語。私は最近、落語に興味を持った。もともと参加している読書会で落語の話を読んでいたので、興味を持つ前から「現代的にアウトだけど意図的に排除すべきでない」描写がたくさんあることも、アウトな表現のためだけに抹殺すべきでないってのもわかっている。

でもあらすじを知らずに見た「短命」は本当にしんどかった。「短命」の後半のおうむ返しパート、男(八五郎)が奥さんと前半で聞いた内容をそのままやってみるくだりは、オチのためとはいえ、結構つらかった。

夫婦のコミュニケーションだから、八五郎のおとぼけ感が面白いから、別につらくないんじゃない?という意見は認める。それに、後半をどう作るかって話す方とその時々によって違うってのも勿論理解している。


落語も噺手さんも好きだから、価値観のアップデートで古典を楽しめなくなるのはなんだか悲しくなっちゃうなぁ。

だから古典を古典として楽しむ能力つけて、いい作品をアナクロニスムで勝手に嫌いになるの防ぎたい。

でもこの能力ってどうつけたらいいのだろうか?古典を定期的に鑑賞すること、わきおこった感情と目の前の光景をなるべく早く分けることを訓練すればいいのだろうか。なんか悟りを開くための修行みたいだな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?