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ショートショート『コーヒーカップが消えた朝』

夢から覚めると事件が起きていた。

コーヒーカップが消えたのだ。

僕はパニックの最中にいる。食器棚や食器乾燥機の中、どこを見ても昨日まであったコーヒーカップがない。我が家にあるコーヒーカップは、僕と妻の二つだけ。どうして予備を買っておかなかったんだと昔の自分を責めるが、すぐに反論された。「コーヒーカップが消えるなんて想定外だ」。割れたり欠けたり、そんなことはあるだろうが、それでもコーヒーカップは「ずっと」あるように思えてしまう類のものだ。消えるなんて、確かに誰も想定していない。

ここで僕は、寝起きの頭、しかも二日酔いの頭で究極の選択をしなければならなくなった。コーヒーカップ以外のものでコーヒーを飲むか、それともコーヒーを飲まないか、だ。

ホットコーヒーを飲むのは、僕の毎朝の欠かせない日課だ。お気に入りのスペシャルティコーヒーをペーパードリップで淹れる。ゆっくりと円を描きながら湯を注ぎ、香りが立ち込める中、じっと我慢。「おあずけ」は本来、人間が犬に命じるものだけど、幸福に包まれるのは、僕がコーヒーに対して敬意を表している何よりの証だ。コーヒーを飲まなければ、一日を始められない。つまり、その一日を生きていくことはできないのだ。中毒といわれても構わないし否定もしないし、僕は誇りにさえ思う。

コーヒーカップが消えた今、どうやって飲むかが問題だが、我が家には耐熱性のコップが他にない。ガラスのグラスは、ワイングラスやウイスキーグラス、たくさんある。まさか、味噌汁の茶碗やスープ皿で飲むことになるのか。耐えられない。コーヒーへの冒涜だ。

では、コーヒーを諦めようか。数時間経てば近所のホームセンターが開店するから買いに行ける。いや、コーヒーを飲まずして、やはり動き出すことはできない。堂々巡りだ。

僕はもう一度、キッチンを隅々まで探した。藁にもすがる思いで、冷蔵庫を開け、鍋の蓋を取り、何年かぶりに床下の保存庫まで開放した。コーヒーカップは、ない。

頭を抱えていると、妻が起きてきた。

「ガチャガチャうるさいんだけど」

「ごめん」

「朝っぱらから何やってんの?」

「実は、コーヒーカップが消えたんだ」

「コーヒーカップ?あ、昨日の夜、洗ってる途中に割っちゃったわ」

コップでミネラルウォーターを一気飲みした妻は、平然と言いのけた。

「割ったのか?二つとも?」

「そりゃ割っちゃうこともあるでしょう?もしかして、コーヒーカップがないとコーヒーが飲めないとでも言うの?」

僕が黙って俯いていると、妻は小さく「バカね」と呟いた。

「これで、いいじゃん」

妻が差し出したのは紙コップ。僕は絶望した。

布団に戻ってふてくされていると、声をかけられた。

「ちょっと来て」

「何?」

「だから、ちょっと来て」

妻の口調が強くなったのを察知し、僕は渋々従うことにした。手招きされ、とりあえず付いて行く。寝室から廊下を歩いてリビングへ。キッチンに目をやると、在りし日のコーヒーカップが思い出されてつらい。

突然、太陽の光が視界を覆った。窓の向こうのベランダにはキャンプ用の椅子とテーブル。カーテンを一気に開いた妻がにやりと笑っている。

「今日は、ここで朝食を取りましょ」

スリッパを履き、椅子に腰かける。妻がポットを運んで来て、テーブルの上に置かれた紙コップにコーヒーを入れてくれた。

「悪くないでしょ?」

僕は頷くしかなかった。

こうしてベランダから外の景色を眺めるのはいつぶりだろう。みんな、今朝もコーヒーを飲めているだろうか。僕は妻のおかげで飲むことができた。みんなも、そうであってほしい。右手に温もりを感じながら、僕は願った。

fin.

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