見出し画像

勉強する人、学習する人 ~絵本作家五味太郎さん

※おことわり
この記事は、「2010年CBLおもしろい図書館」に掲載されたものをブログとして再録したものです。

聞き手●有川裕俊/絵本館  構成/内海陽子

著書は400冊を超え、年齢性別さらには国籍関わらず多くの読者を魅了し続ける絵本作家・五味太郎さん。次々と新しいアイディアを繰り出すそのエネルギーの源は、いったいどこにあるのでしょうか。

なぜ五味太郎は穴を掘っていたのか


――なにやら、「勉強人と学習人」みたいな内容の本を書かれたと伺ったのですが。
五味 ふふふ、「縄文人と弥生人」みたいね。タイトルは結局、『勉強しなければだいじょうぶ』に落ち着きました。

――また、大胆なタイトルですね。
五味 10年以上前に『大人問題』という本を出したんだけれど、思った以上に反響が大きくてさ、たくさんの人から手紙がきたり相談がきたり講演依頼がきたりしたのです。しばらくは対応していたけれど、もう飽きちゃったんですよ、大人と子どもという図式で物を言うことに。それに僕、絵本作家だからさ、好きな絵本の作業に集中したいじゃないですか。

 でもね、相変わらずいろいろな大人たちが、絵本作家である僕に、今の世の中についてどう思いますかなんて質問に来たり、これからどうしたらいいんでしょうなんて相談に来る。その数はむしろどんどん増えている。なんでだろうって、ちょっと気になって。大抵そういう人たちはみんなどこか窮屈そうで、すこし生きにくそうなんだ。なにかを憂いていて、嘆いていて、不安に満ちている。

 ひるがえって、僕は子どもの頃何をしてたんだろう、何考えてたんだろう、何を感じてきたのかなっていうことに興味が出てきたんですね。前期老人の楽しみとして、そういうのを辿る面白さってあるなあと。で、大雑把にいろいろ考えてみたら、自ら学んできたなあと思ってさ。ずうっと、自分で考えて、自分でやってた。
 ちょっと具体的に言うとね、僕、穴掘るのが好きだったのね。

――……穴ですか。なぜ?
五味 理由はよくわからない。なにが動機かもわからない。でも家の庭に穴を掘るのが大好きで、時間があれば穴を掘っていたわけ。そうすると、いい穴を掘りたくなる。きちっときれいな真四角の穴を掘りたいなあとか、深いほうがいいなあとか、土が湿ってくるあたりまで掘ったりする。自分で作業しているとひとりで盛り上がっちゃうんだよな。学校にいても、早く家に帰って続きを掘りたいの。だから友だちなんか来るとうるさいわけ。そのうち「なにしてるの?」「俺もやる!」とか言うヤツが出てきて、しょうがないから手伝わせたりしてさ。でも、やつら下手なんだよ。
 とはいえ、ずっとやってるわけでもない。ブームなんだよね。急に飽きちゃったりして。あの作業はなんなんだろうと思うのですよ。
 ホッピングって知ってる? 

――スプリングに両足載せてビヨンビヨン飛び跳ねるやつですね。
五味 ホッピングで通学ができるか、と考えたのさ。家を出てから学校に着くまで、絶対に地面に足を付かないって決めて。

――そりゃ大変だ。赤信号のときは、どうするんですか?
五味 電信柱に寄りかかって休むのよ。甲州街道に出ると、向こうから武藤と小川っていうのが合流してきて、みんなでホッピング通学さ。仲間内でけっこう流行りだしたら、学校で腸捻転になるから禁止、とか言われたりして。
 ……今も同じことやってるなあと思って。

――と、おっしゃいますと?
五味 こういう本描こうかなっていう思いつき、穴掘ろう、ホッピング通学しようっていうのと、ほとんど次元が変わらないの。こんなの描いてみようかなと思いつき、描けるかな、描けないかな、自分で作業して、やったやった!……この感覚は子どもの頃からまったく変わっていない。
 と同時に、子どもの頃から五味太郎をやっていた気がするんだよね。年齢が変わって、立場が変わっていって、社会的な呼び方が変わってくるけれど、俺個人は何も変わっていない。「俺がいる」ってハッと気づいた頃から、ずーっと五味太郎をやっているんじゃないかな。途中から署名性のある仕事をしているからその意識が強いのかもしれないけれど、みんなもそうなんじゃないかと思うのです。
 いま、手紙をくれる子どもたち、本当にみんなそうなんだよね。「あなたの本読みました、がんばって」って手紙をくれる“すみれちゃん”っていう子がたまたま小学一年生で、それが中学生になって、大人になっていって、赤ちゃん産んだりして……。
 つまり、アイデンティティってやつだよね。自己統一性。これを、なぜかバラバラにしていく社会がある。

――自己矛盾していく、ということですか?
五味 正しい学童として、正しい中学生として、男らしく、女らしく……単純な個人が、個人のままでいられなくなって、中学2年生を演じたり、男らしさを演じたり、女らしさを演じたり、あるいはエコの人を演じたり。そして演じ続けるべき社会的プレッシャーのなかで、自分が何をしたらいいかよく分からなくなる人々がこれだけ溢れている。その構造が、とても気になったんだ。

好きなことばかりしているとダメになる?

――五味さんは、なんでそうやって五味太郎を続けてこられたんでしょうか?
五味 なんでだろう。母親も親父も、僕が穴掘っているのをチラッとは見ていたんだろうけれど、「何なんだ」とも「大丈夫かしら」とも言わなかった。ブームが去ってしばらく穴をほったらかしておいて、また掘ろうと思ったら、母親がゴミ捨て場にしていてさ。文句付けたら、「あら、ごめんなさい」って。
 息子が集中して穴掘っていようがいまいが、別に関係ない親がいたってこと。ほら、気にする親が出てくると、なにか説明しなければいけないじゃない、これはなんのために掘っているんだとかさ。いちばんいい説明は「これはアートなんです」ってことなんだろうけど、そのときは思いつかなかったしね(笑)。
 あとから考えるとラッキーだったなと思うのは、僕の両親は少なくとも侵さない人たちだったんだよね。なにも導いてはくれなかったけれど。僕が友だちと街でちょっとイタズラをして捕まったときも、親父は「お前そういうことして面白いのか? 俺はやらねえな」と一言。いい人だったんだね。もう遅いけれど、ちょっとお礼言っておくべきだったな。
 今、子どもたちがピンチなのは、何かやっていると「あんた、これなんなの」「どういうつもりなの」って、すべてに説明を求められるから。大人が理解できないと不安になって、子どもに説明を求める。でも子どもは、なぜ自分がこういうことをしているのか、そうよくはわからない。わからないのが当たり前なんだけど、大人にわかるように説明しなければならないから、懸命になって説明しているうちに、なにか違ってきちゃうんだよね。ずれていっちゃう。でも、先生とかおまわりさんとか親とかがわかった気になれば、それで話は済むわけだから、全部に付き合っていくでしょ。とりあえずすべてに理由をつけて説明する。そのうちもう煩わしくなってくるんだよ。
 もっと言うと、勉強っていうことにずーっと付き合っていくので、そのことだけでもうヘトヘトなんだと思うの。頭がいっぱい。だから、学習する余地がない。

――好きなことをしてないってことですか?
五味 本当に必要なことをしていないということかな。「人間、好きなことばかりしていてはいけない、ダメになる」「我慢して努力すれば幸せになる」という暗黙のルールがあるでしょ。……嘘だよねーって気が付いた人から、動き始める。気が付かない人は、まだ努力をする。努力する人はいい人なんだよね、素直な人。だって、そうすれば幸せになる、良くなるって、言われたんだもの。だけど、その通りにしてみたけど、あんまり良くないんだ。それでわからなくなっちゃう。残念だよね。
 「勉強」ってさ、「無理にでも努力して励むこと」っていう意味だって知ってた? 辞書ひいてごらん、そう出ているから。
 「まじめに学校行かない子は良くない子だ」という神話が、恐ろしいほどびっしりあるんだ。この恐ろしさは、いろいろなところにある。たとえば衛生問題――手を洗わなければ病気になるって、真面目な大人まで入口で並んで手出してアルコールみたいなのをシュッシュッ、シュッシュッ――それじゃ防げないよねってみんなわかっていて喉まで出かかっているのに、その形をやる。怖いよ。生物とは思えないんだ、僕には。ちゃんと食べないと病気になる、嘘ついたらダメになる、学校行かないとダメになる。一種の宗教みたいなものに満ち溢れて、そういうことで人間のエネルギーの90%以上を使っているんじゃないだろうか。ダメになるという脅かしと、恐怖心。残ってる8%ぐらいのエネルギーで、しょうがないから携帯見たりゲームやったり。そのバランスでやっていると、なにかピンチがおきたときに手の打ちようがないんだよね。まじめな暮らしをやって来た人たちが、今、ピンチになり、行き場を失ってしまった。

――つまり、五味さんは、まじめにはやってこなかったということですか。
五味 そういう言い方はないでしょ、僕なりにまじめにやってきたつもりですけど。でも、どうも勉強した覚えがあまりないんだ。でも一応まともに算数もできるし字も書ける。なんでだろう。でもこれ、学校で習ったからじゃないなあという実感があるの。放っておいても出来たよねという変な自信がある。学校で何をしたのかなと考えてみると……ないんだよね、何も。

――小学校のときの先生には世話になったって、以前おっしゃっていませんでしたっけ?
五味 それは、先生というある個人ね。その先生は、俺と同じ価値観をもっていたんじゃないかな。要するに、「人間は自分のことでそれぞれ生きていくんだよ、おしまい。」っていう簡単さに初めて出会った。自分にはわからないことがあるってわかっている人、自分には把握できないことがあるよねって把握出来ている人がいてくれるというのは、ありがたいよね。

生きている=不安定、不安心

五味 輝く65歳にならんとしている僕が今、「僕も学校さぼったし、嘘ついたし、手もあんまり洗わなかったけどだいじょうぶだったから、だいじょうぶだよ」って言う権利はちょっとあるかなあと。ちょっとうまい蕎麦屋を教えあうみたいな感じで、ちょっとうまい人生を教えあおうかなあっていう感覚があってね。

――いいですね。でも、五味さんはだいじょうぶでも、みんなは五味さんみたいにやっていける自信がないですから……。
五味 そこが甘い! 俺だって本当に自信ないんだよ。みんなのほうがよっぽど安定している気がする。
 あのね、安心、安定を目標にした社会づくり、人生計画なんてムリよね。だって、生きているっていうのは不安定、不安心でしょ。これがエンジョイできなくてどうするのよ。安心、安定はご臨終ってことだよ。不安を解消するっていうのは死に近づいているってことさ。
 たとえば赤ちゃんが生まれて面白いのは、「さあ、この子どうなるんでしょう」って見てることでしょ。「どうする」じゃないんだよ、「どうなるのかなあ」ってこと。それを、意識的に「どうしよう」ということから誤差がでる。

――今までに五味さんと同じようなタイプの人、周りにいました?
五味 いるいる。でも、途中で挫折して安定路線に入っていく人、多いね。根性……じゃないな、不安定、不安心の楽しさを知ると面白いんだよ、「どうなるんだろう」って。不安感というのは生きている実感なんだよね。
 「安心した」という感覚が僕にはよくわからない。じゃあ、いくらお金貯めておけば安心なんですか……2千万円ぐらいかな、いやもうちょっといるかなって、これが不安なんだな。就職したら安心っていうけど、会社潰れないかな、リストラされないかなって、不安になる。「財産なければ破綻なし。就職しなければクビもなし」だぜ。

僕を通った価値がある、ということ

――五味さんは、そうやって子どもの頃からずっとやってきたラインで、絵本も描いていらっしゃるんですね。
五味 まったくそのとおりでしょうね。

――五味さんが登場するまでは、多くの絵本作家は「子どもを導く」ための絵本を描かれていたように思うんです。
五味 ……そうかなあ、そうしないと社会の中で存在し得なかったからそう言ってただけで、みなさん敢えて導こうとか思っていなかったんじゃないかと思うけれど。
 絵本を描いていて面白いのは、最初に取り掛かった時の予想より面白いってこと。これはイケる。『その気になった!』なんて代表例ね。はじめ2〜3描いてみて、どうなるんだろうなと思いながら、おお思ったより面白い!って、最後なんてうっすら泣いちゃった。これはちょっと他人に見せないとまずいなあ、と。基準は簡単。このあたりいくと面白いのかなっていうのはわかるんだけれど、やってみて思った以上に面白くならないとダメね。「みんなに見せたい」と思ったら、出版さ。

――『みんなうんち』も、そのノリで?
五味 ……あれは、できれば描き直したいね。今ならもっとうまく描けるな。
 表現っていうのはさ、僕を通して表現するって意味でしょ。僕を通った価値があるというのかな。うんこが面白いと思ったのは、そいつを通ったんだなってこと。その身体をずっと通って出たもの、これにはなにかあるなと思って、その世界をいちど僕を通して出した、「出ました」って感じ。その繰り返しだよね、出版という作業は。

――五味さんが絵本をつくりはじめた頃に、自分と同じタイプだなと嗅覚が動いたとか、影響されたとか、強く共感を得たとか、そういう作家はいらっしゃったんですか?
五味 うーん、絵本ってそういうふうに見たことないなあ。自分の中でそういうものを求めてもいないし。

――長新太さんとか、ディック・ブルーナさんのこと、どこかで書かれていましたよね。
五味 作品を見て、個人の作業だなあって感動したものはいっぱいある。でも、影響とかされないよ。
 あのね、学習人は勘で生きるしかないんだ。勉強人は知識で生きるらしいけど。勘を研ぎ澄ませておくタイプの人が学習人になるんだと思う。そうすると、この絵はイケるなあっていうのを、街の壁の落書きなんかにも感じたりするのですよ。イケてる看板とか。美術館なんかに行かなくてもキリなく面白い。美術館にもそういうのたまにある。違う風土の街ならなお面白い。その人のために必要な行為をして、その行為によって他人が揺れる可能性がある、この形のことを“アート”っていうんだろうね。揺れるかもしれない、揺れないかもしれない、ってことね。
 そういう、あるものの見方、あるいはもっと面白いものを見たいという欲。勘と欲だけで生きていくんだよね、学習人は。で、今の多くの子どもを見ていると、アミーゴ!なんだよね。

――なるほど、それで五味さんの本が107条図書(*)に選ばれるんですね。『いろ』『かたち』とか『のりもの』とか『ことばのえほん あいうえお』とか。海外から日本語を学びに来た人にも、五味さんの本は大人気ですね。
五味 簡単だからね(笑)。勘と欲で生きていくある方法を見つけた人とは、すぐ心がイケイケになるの。それが子どもだったり、運転手さんだったり、レストランの人だったり、どこにいるかはわからないんだけれど、必ずいる、俺も気にしているし向こうも気にしている、みたいな人。海外に行くとなぜかその率は高いみたい。
 世界中、大雑把に2種類のタイプの人しかいないと思うんだ。自分を中心に組み立ててなんとか社会と折り合いをつけてきた人と、社会体制の中で自分の役割みたいなのを当てはめて組み立ててきた人。前者とは、すぐ気分がイケイケになる。「……なあ」ってお互いつっつき合って肩叩き合って、結果、何語で喋ったのかなあというようなこと、よくあるよ。

自ら出会うもの

――伺っていると、五味さんは勘と欲だけでやってきて、結果的に知識と教養がついてきた、ということになりますね。
五味 そうそう、そこが重要なの。勘が働くには知識が必要でしょ。無駄に思える知識でも、染みるんだな。そこから関連付けて考えていったり、それでもどうしても気になることがあれば、調べたり人に聞いたりするでしょ。僕はわりと質問の名人よ。「これ、なに?」「なにしてるの?」って、すぐ聞いちゃう。それは子どもの頃から変わらない。聞かれると嬉しいんだね、向こうも。いろいろ熱心に見せてくれたり、いろいろ食べさせてみてくれたりしてさ。そうやってあっちこっちで遊んでいる感じもある。学習人は基本的に暇だからね。なんのプレッシャーもないし、時間も決まっていないから。

――学校外でいろいろ学習してこられたようですが、ご両親から学んだことも多いですか?
五味 いや、ぜんぜん。……でも、そういう意味で言えば、親父の本棚にはいろいろな本が並んでいて、美術全集なんかもあったから、僕も気になる本があればそこから抜き出して眺めたりしていたかもしれない。親父が部屋の掃除のついでに、「お前これ読むか?」って、今西錦司全集をくれたりして。今西進化論を読んで「ほー、世の中いろいろあるね」と、しばらく熱中した憶えがあるよ。

――それはいつ頃のことですか?
五味 高校生のときかな。

――中学生の頃から歌舞伎に通っていたとか。それもお父さんと?
五味 いやいや、歌舞伎はまったく自分の意志で、自分で行ってた。

――どうして歌舞伎に?
五味 うーん、話すと長くなるけど、まず中学2年の夏前に僕は挫折したのです。

――えっ、五味さんが挫折?
五味 体操競技に憧れてさ、体操部の充実した私立の中学校に入ったんだ。入学、即、体操部入部。ワクワクしたね。初めて飛びつかせてもらった鉄棒の感触、いまだに忘れない。小学校の鉄棒みたいに錆ついたただの固い鉄の棒じゃなくてさ、体操競技用の鉄棒は手に吸いつくようで、身体の動きに合わせてしなるんだ。わけもなく有頂天になっちゃったよ。毎日、授業が終わると部に行って、ある目標の中で今日のテーマ――蹴上がりから連続して回るのを今週中にマスターしちゃおうとか、平行棒や床運動の技だとか――を自分の中で組み立てていく。それが面白くて、充実しているんだよね。うすうす東京オリンピック目指していたし。
 でも、2年生のときに膝が痛くなっちゃって。成長期が遅かったんだろうね、無理な動きで膝に水が溜まっちゃったんだ。痛くて競技もできないし、冷静に先輩たちを見てたらみんな背が低くてさ、これはヤバイと思って、体操部を辞めたんだ。
 で、やることなくなっちゃったんだよ。毎日のローテーションがなくなって、人生一度終わっちゃったの。つまらないから、街に出るしかなかったのね。そのときに、意識的に「なんかないんだろうか」と探していたのかな、わからないところにどんどん入っていくクセがあったみたい。ボクシングジムとか――「後楽園ジム」だったかな、暗いところにリングの上だけに電気がついていて、スパーリングやっている人がいて、すごいあやしい世界だった。でも、けっこういいなこういうの、とか思ったりして。
 東京駅の近くで地下への階段を下りてみると、ジャズ喫茶だったわけ。当時は学生服でも入れてくれたんだね、モダンジャズという音楽に出会ってさ、なんかいいなあって。提灯がいっぱいついていてなんだか華やかなところがあってさ、入ってみたら歌舞伎座だったり、末広亭だったんだよね。
 全部、自分で出会ったんだよ、偶然に。で、「こういう人生いいなあ」「こんな感じいいなあ」「こういうのはやらないな」なんて思いながら、ぶらぶらしていたんだ。今も同じ。

――そういう「自分の好きな」体験を学校ではなかなかできないのは、どうしてなんでしょう。
五味 ひとつには教育があまり科学的でないってことでしょうね。今の社会づくりはものすごく未熟だと思うの。21世紀まできて、相当高度な社会になっている……と思いたいんだけれど、教育問題にしろ衛生問題にしろ、ものすごく幼稚だし非科学的。先進だ、文明人だと思っちゃっているところが、非文明的なんだよね。人という生物はまだまだ道半ばな気がするよ。
 子どもが毎日学校で学ぶという方法が、あらゆる知恵を持ち寄って考え抜かれたもっとも良い方法だとは思えないんだ。学校という制度って冷静に考えてみたらたかだか200年の歴史しかないんだから。その根本を今まで一度も考えてみたことないんじゃないかな。人にとっての学習っていったいなにか、人はどうやって学ぶんだろうかという簡単なことさえ証明されていない気がする。それを裏付けにしたカリキュラムをつくらなければ、意味ないじゃない。
 個人が何に出会うかということがすべてなはずなのに、今の教育はそれをものすごく侵していると思うよ。強制的に無理やり出会わせるカリキュラム。それも、すべての子におしなべて。
 人生、何に出会うか、ということが劇的なのですよ。いいとか悪いとかではなく、出会ってしまうものなのです。

頭は使いよう

――子どもにものを伝えるときに、いちばん伝わる方法は、なんでしょうか。
五味 伝わらなくていいんだよ。それは、伝えたいという欲でしょ。おじさんはこれを伝えたくてしょうがないんだって、素直に言えばいい。そうすると子どもも付き合ってくれるよ。
 子どもっていいやつだからさ、付き合うんだよね、一生懸命やっているのを見ると。職人さんとか、薩摩揚げ揚げてるおじさんとか、美容院のお姉さんとか、「なにしてるのかなあ」って一生懸命見てるでしょ。だから、心ある人が、単純に作業していればいいんだよ。

――「少年は、見るのが仕事だ」って、ご自身の自伝的エッセイ『ときどきの少年』にも書かれていましたよね。
五味 そう、子どもの本業は「見ること」。見ることだけだと言っていいと思う。

――五味さんが、ものの質を非常に象徴的に絵に描く才能、見る側に飛び込んでくるような絵が描けるというのも、「見る」ことからくるんでしょうか。それにこの色彩感覚、色のバランスの良さ……どこから生まれてくるんでしょう。
五味 頭を通さないでやる仕事というのが重要かな。色とか形ってほとんど頭を通さない仕事なんだと思う。頭を通すと狂うんだ。頭を使うのは、ここいちばんのときだけでいい。四六時中思考するもんじゃない。分析するとか統計とるとか、そういうときは頭を通すんだと思う。色とか形とか、お料理とかは、頭使わないほうが上質な作業なんだと思うの。それがね、勉強すると頭を使っちゃうんだな。頭使いなさいって言われて「この色とこの色は合
うんだろうか」とか「これは寒色だろうか暖色だろうか」なんて考えはじめると、わからなくなるでしょ。不得意な人が得意になるようにいろいろな手段を使ったところで、わけがわからなくなってくるんだ。
 なるべく考えない方がいい。考えるべきときに考える、それができる人が、たぶんプロフェッショナルなんだと思う。考えないでもどんどん出来ちゃう人が作業をしている。得意な人が得意なことをやれば、簡単なんだよ。

――考えるためには、何が必要ですか?
五味 だから、考える必要がないんだよ。必要があったら考えるの。
 とりあえず今、僕が必要なのは、腹減ったなあ、蕎麦屋でも行きたいなあ、ってこと。

――いいですねえ。
五味 じゃあ早く段取り考えてよ。どこ行く?
                            (了)

※この記事は、下記からダウンロードも可能です。

*********************************
※表紙の写真


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?