風が目に沁みた。

最近、休日の過ごし方が分からない。来週末は三連休らしい。正直、三連休とか言われても困る。

目下、自分の住まう県にもまん延防止重点措置が出ている。「まん延防止」としか口に出してこなかったので、正式名称を初めて知った。正直に言って困る。既に二年前から、これ以上対策することがほとんどない。テニス以外、休日に出かけることなんてなく、これ以上はもうダメになる気がする。


今日も休日にやることを探したが、結局見つからなかった。ひとまず散歩してみようと思ったけれど、この街では歩いてたどり着ける場所なんて限られていて、それにもうほとんど歩き尽くした。基本的に散歩は精神衛生に良いのだけど、同じ場所をぐるぐると巡っているとむしろ精神をやられそうだ。

ふと思い立って、浅草寺まで出てみることにした。まん延防止重点措置には「県外への不要な移動の自粛」も含まれているけれど、そこはもう仕方ない。これ以上は多分自分がダメになるとそう思った。

外行き用の鞄に入れていた文庫本を、ちょうど置いてきてしまっていたところだったので、駅前の書店に買いに向かう。出かけると決めたら、心なしか、気分も少し上向いたような感じがした。今の自分には長編は読めるとは思えなかったので、短編集を買って電車に乗る。一月の初めに都内に出た時とは打って変わって人が少なく、「他人」の良心を感じてわずかに安心する。


浅草という場所が自分にとってどんな風に記憶されているかというと、数年前、連れ立って出かけた人のことを思い出す。当時、その人に対して抱いていた感情などもうどこにもないけれど、ただ失敗した記憶だけが浅草という場所に残っている。

電車に乗っていた時の安心感はどこへやら、浅草は人で賑わっていた。連れ立つ男女、着物姿の若者たち。アジア系の観光客に、家族連れ。自分も何かを言えた立場ではないので、彼ら自身に特に何かを思うところはなかったけれど、こんな状態ではいつまでも終わらないのではないかな、と諦念に似た気持ちを覚える。最大限の対策をとって(あるいはそのつもりで)、人との接触を断ってきた自分がいる一方で、こうやって普段とほとんど変わらずに過ごしてきた人々だっているのだとそんなことを思わされる。悲しいことに、いまさら悲しくなったりはしない。見飽きてきた光景、感じ尽くしてきた気持ちだ。

賑わう人々を横目に見ながら、雷門も仲見世通りも、本堂さえも通り過ぎる。浅草寺に来たかったわけではなく、散歩する場所が欲しかっただけなので。本堂の脇、小さな石碑やお堂が並ぶ境内をぷらぷらと歩く。この街のハトは近づいても飛んで逃げる素振りすらなく、いつまでも地面をぽつぽつ歩いている。地面に小さな鳥がいるな、と思ったらスズメとメジロだった。メジロってその辺にいるんだ。冬だからかも知れないが、スズメはとてもふっくらしていて、自分よりも良い暮らしをしているように見えた。浅草寺に住まうスズメになりたい。

あてどない散歩は続く。アーケードの入り口に差し掛かった時、ふっと息が詰まるような感じがした。呼吸が浅くなる。一昨年、大阪の道頓堀近くのアーケードでも同じだった。一種トラウマのようになっているこの感覚は、もしかしたら一生消えることはないのかもしれないと、そう思いながら、アーケード脇の道へと外れていった。


浅草といえば、とついでに吾妻橋へ向かった。吾妻橋って、あの有名なアサヒのオブジェが見えるところだ。吾妻橋から、首都高が見えることは知っていた。実際、浅草方面から見たことはない。首都高を走る時、アサヒのビルと浅草の街並みが見えていたからだ。橋のたもとに着いて、ただ放心して首都高の流れを見つめていた。多分、首都高に乗って都内に出るなんてことはもうないだろう。電車の方が、コストも低い。そこまで車の運転が得意でないことは自負しているので、首都高に乗るたびに、そこそこの命の危険を感じていた。合流であわや事故ということもあった。ほとんど一睡もしていない頭で、夜明けの街を抜けたこともあった。それでも、あの頃の自分には、そうまでしてもたどり着きたい理由があった。26歳だった。一台一台、流れる車を目で追いながら、いつかの自分はあの中の一台だったのだ、と何度目か分からないことを思う。この道を抜けて、自分は。あれから随分と時間が経ってしまったような気がする。


つい最近、同じような思いの丈を友人にこぼしてみたら、「いつかは大丈夫になるから、大丈夫」と返ってきた。一見、無責任な言葉のようだけれど、その言葉が今の自分には温かった。今はまだ大丈夫ではないけれど、いつか大丈夫になる日まで、歩いて行かなきゃならないんだなと。そう心の中で考えると、浅草の風が妙に目に沁みた。

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