もしも今、あのメンバーで戻れたら

特に感情の生まれない1日だった。

事務処理やら内外の調整やらに追われていたら定時になっており、それどころか21時過ぎまで残業していた。

18時頃が疲労のピークで、全く頭が働いていなかったが、19時を過ぎると逆に冴えてきた。正直肉体的な疲労はあるけれど、精神的な疲労は少なめ。


なんとなく大学の研究室のことを考えていた。いま仕事に打ち込んでいるような熱意で、あの頃のメンバーでディスカッションしていたら、もっと色んな結果が生まれたのではないか、ともしもに思いを馳せていた。あの頃、研究室のメンバー同士の交流は盛んだったけれど、お互いが毛色の違うテーマに取り組んでいることもあって、ゼミ以外で研究について意見を交わす場というのは少なかった。メンバーで一番交流していたのはトランプをしていた時だった。「ドボン」という同名のゲームとは似ても似つかわしくないオリジナルのゲームが研究室には存在していて、絶妙なバランスと中毒性を持っていた。誰かが声をかければ、4,5人が集まり、誰ともなくトランプの山を切り始める。1日に2時間ほどやっている時もあれば、全くやらない時もあった。ドボンの最中の会話で、研究について語り合う時も多かったし、大事な交流の時間だった。ただ、もう少し時間を減らしても良かった気がする、と今では思う。

どうしてそんなことを考えるに至ったのだっけ。職場のコピー機の上に置いてあった紙に、太田健一郎先生の名前が見えたことがきっかけだった。確か自分の大学の教授だったよな、と調べてから電気化学界の太田先生の寄稿にたどり着いた。太田先生の学生時代、学生闘争が盛んになり、工学系の学生は過激派に薬品が悪用されないよう、校舎を「逆封鎖」したらしい。講義は開かれず、学生たちで集まって輪講をしていた、という話を聞き、今の自分達がもう一度研究室に集まったら、などと考えたのだった。

それでも当時は当時で研究以上に大事なものがあったし、必死に生きていたのだと思う。何より今は研究でお金がもらえているけど、当時は学費を払って研究していたのだから。

研究室から出て、研究職になった学生は毎年一人くらい。遅めの就職活動が夏に終わって、教授に研究職になることを報告した時、「君も研究職になるのかい!?」と僅かに嬉しいような声で驚きを示していた顔を思い出す。一人の研究者としてではなく、一人の指導者としては、学生が研究の道に進むことは嬉しいのかもしれないな。これからどんな道に進もうと、自分の研究の原点は、あの森の中の、四角くて白い建物なんだ。社会人一年目の時には、自分の名前をFirst Authorにして論文を出してくれたし、先生にもそろそろ挨拶しないとな、と思いながら、なかなかその機会を作れずにいる。

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