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わたしが何を言ったって、世界は変わらないかもしれないけれど

「30歳までには子供産まなアカンで~」

親戚の集まりに顔をだすと、必ずといっていいほど言われるこのセリフ。まるで「それを言うようにプログラムされているロボット」のようなおばちゃんたちに、心底うんざりしている。そして、そのセリフに、わたしは条件反射でこう返す。

「残念ながら予定ないですね~あはは~」

なんて、はり付けた愛想笑いを披露しながら、心の中のもう一人のわたしの声を押し殺す。

「残念ってなに?自分のいまの状況を”残念”って思ってるってこと?」

べつにいいやん。ふつうに働いて、それなりに生きてるし。結婚や出産をすることが幸せとは限らない。自分の幸せは自分で決める!!そう思っている・・はずなのに。本当は、自分で自分を残念だと思っているのかもしれない。

そんなわたしとおばちゃんのやり取りを聞いていたおっちゃんが言ってくる。

「やっぱり愛嬌が大事やからなぁ。もうちょっと愛想よくせんと!」

ここまでがテンプレ。
もう使い古されて、ツッコむのもめんどくさいぐらい時代錯誤。

「多様性の時代」なんて言われている世の中。性別、年齢関係なく、個人を尊重しましょう。テレビやネットで声高に叫ばれている。大きな動き、大きな声だけを切り取れば、世界は変わっているように見える。でも、もっとミクロの世界。小さな世界の片隅は、なかなか簡単には変わらないように思える。

「女は愛嬌」
「結婚、出産することが女の幸せ」

それが、さも当たり前かのように語る人がいる。

でも、しょうがないのかもしれない。
だっておっちゃんたちは「女とクリスマスケーキは25まで」なんて、今の時代であれば、炎上も炎上。燃え盛る炎にまかれ、袋叩きにあって、社会的に抹殺されてもおかしくない言葉が、あたりまえに使われていた時代に生きていた人たちだから。染みついた価値観は、なかなかしぶとい。
人はかんたんには変わらない。

だから、何を言ってもムダだと諦める。
わたし一人が何を言ったって変わらない。
それなら、諦めたほうが楽だ。

それにわたしは「多様性の時代」を声高に叫ばなければいけないほど、困っているわけではなかった。自分の性別に疑問を抱いたこともなければ、目に余る差別をされたこともない。裕福ではないけれど、あたたかい家族のなかで、ぬくぬくと育って。それなりに幸せに生きている。結婚や出産だって、絶対にしないと決めているわけじゃない。そういう相手が現れればするかもしれない、そんな感じ。
ただ「女だからそうするのが当たり前」だと決めつけられるのがイヤなんだけれど、そう思いながら、またひとつ、違う思いがぼんやりと浮かぶ。

性別、年齢、どんな会社に属しているか。
そういう「自分を表すスペック」をなくしたとき、わたしはわたしのことをきちんと説明できるだろうか?


女だから。何歳だから。こういう仕事だから。
決めつけられるのがいやなくせに、それを言い訳に使っている自分がいることも知っている。
スペックは、わたしにとって枷であると同時に、お守りでもあった。

自分が自分であることを声高に叫ばなくても、生きてはいける。
じゃあ、なにがこんなにひっかかってるんだろう?なんで、心の中の小さなわたしは、こんなにも一生懸命に叫んでいるのだろう?


自分の気持ちは自分のために

現在絶賛放送中のアニメ。「その着せ替え人形は恋をする」にどハマりしている。高校生の男女をメインにしたラブコメアニメ・・かと思いきや、いろんな「当たり前」にがんじがらめになっているわたしの心を救ってくれる名作だった。

主人公は男子高校生の五条わかな。
ひな人形の職人である祖父に憧れ、自身もそれを目指し修行中。趣味はひな人形に関することだらけで、同級生とは話が合わず友達もいない。そんなわかなには苦い思い出があった。それは幼いころ、幼馴染に自分の夢を話したときのこと。祖父の作ったひな人形をキラキラした目で自慢するわかなに、幼馴染はこう言った。

「なんで男の子なのに人形がすきなの?気持ち悪い!」

わかなはそれ以降、自分の夢を人に話すことをやめた。

そんなある日、ひょんなことから同級生の喜多川まりんと話しをするようになる。彼女は一言でいえばギャル。見た目も可愛く、性格も明るい彼女はクラスの中心的存在。だが、実は彼女は、その見た目に反し生粋のオタク。しかもそれを”まったく隠していない”。自分の好きなことを素直に表現し、そしてそれが受け入れられている彼女を内心うらやんでいたわかなに、まりんはこう言った。

「自分の気持ちは、自分のために言わなきゃダメだよ」


その言葉にハッとするわかな。
・・とテレビの前のわたし。
自分よりも10も年下のギャルに、ズドン!!と心をブチぬかれた瞬間だった。

そりゃそうだ。
自分の気持ちは自分が一番知っている。それを自分が言わないで、だれが言うんだ?待っていたってだれも気付いてくれない。女だから、何歳だから、そんなの関係ない。わたしはこう思うんだ!!って、言わなきゃ。


性別。年齢。そんなスペックに縛られて、言いたいこともいえないこんな世の中じゃ~♪(ポイズン)(すみません)

そんな世の中ももちろんイヤだけど、なにより、「自分の心の声を聞こえないふりしていた自分がイヤ」だった。心の中で大絶叫しているわたしを見ないふりして、あきらめたふりをしていた。ほんとうは言いたいことがあるくせに、どうせどうにもならないからって、賢い大人のふりをしていた。

でも、黙っていたら一生そのままだ。くすぶって、濁って、沈殿した想いを一生抱えて生きていくのはごめんだ。べつに世界なんか変えなくていい。自分のために、言わなきゃ。


世界はもっとカラフルに

夕暮れに照らされた路地で、下校途中の小学生たちとすれ違う。この子たちはわたしの何年後輩なんだ・・?その年齢差を考えてぞっとしながら、なんとなく、わたしが着ていたころと変わらない制服に目がいく。男の子はズボン。女の子はスカート。服装だけで、はっきりと分かる"性別という線引き"。その様子をみながら、ふと思う。

あの頃は「男とか女とか」あんまり考えてなかったなぁ。

わたしはわたしでしかなくて。友達のみきちゃんはみきちゃんでしかなくて。性別、年齢、そんなこと関係なく、ただ自分としてそこにあった。それを大人たちが、世界が、勝手に線引きしていただけなのかな、と今になって思う。幸いわたしは、それに疑問を持たずに生きてこられたけれど、もしかしたら、わたしが気づかないところで苦しむ子がいたのかもしれない。今すれ違ったあの子たちのなかにも、もしかしたら・・。

そんなことを思いながら、ほんとうに何の気なしに、ふり返った。
やわらかい夕暮れに包まれる小学生たちの背中を見て、ふと気づく。

色が、増えている。

小学生たちが背負うランドセルの色が、わたしが小さい時よりもほんの少し、カラフルになっている。それに気づいたとき、心が震えた。もしかしたら、わたしが気づかなかっただけで、もうとっくに変わっていたのかもしれないけれど、でも、なんだか、ものすごい発見をしたような、そんな気分だった。
だれもしらない世界の片隅。小さな路地。そこに、たしかな変化がある。そして、この変化は「だれかの小さな声が起こしたんじゃないか」と唐突に気づく。

「性別、年齢、関係ない!わたしはこの色が好き!」

そう、だれかが言ったんじゃないか、と思った。
だれも気付かないような小さな声。諦めたくなるところを乗り越えて、叫び続けた声。そんな小さな声が寄り集まって、この世界の片隅を、ほんの少しだけ変えたんじゃないか。もしそうだとしたら、わたしが「どうせ変わらない」と諦めていた声だって、いつか誰かの力になるんじゃないか。

このさい世界とか、そんなでかい話じゃなくてもいい。わたしがこの声を残しておくことによって、あの子たちがこの先、自分の気持ちを押し殺しそうになったとき、その助けになったりするんじゃないか。そう思った。

世界のため?自分のため?どっちだっていい。「自分の気持ちを言葉にする」。そのこと自体に、きっと意味があるんだ。



遠くなっていく小学生たちの背中。ほんの少しだけ増えたランドセルの色。まだ、男の子は寒色系で女の子は暖色系という、ほんのりとした色分けが残っている。その中で、ひときわ小さな女の子が一生懸命に背負っていたランドセルの色は、モスグリーンだった。渋くて、とってもかっこいい色だ。もしかしたら、お兄ちゃんのおさがりかもしれない。

でもわたしは、彼女が”好きでその色を選んでいたらいいな”と思った。そしてそれが、当たり前になればいい。

「わたしは緑が好き!!」

「ぼくは赤が好き!!」

そんな風に、あの子たちの未来がもっとカラフルになればいいな、と思った。


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