「愛としか交換できない愛」は、究極として暴力を呼び起こしてしまう

「・・・形式合理性の重要な一端を担う制度としての貨幣形式を廃棄するならば、原理的には、人間を人間によって支配し管理するほかはないからだ。明示的であれ暗黙的であれ、貨幣廃棄論にもとづく二十世紀の「計画と統制の経済」の思想と実験が、ソ連(スターリンの工業と農業政策、収容所的管理など)であれ、中国(文化革命)であれ、あるいはカンボジア(都市の破壊。強制的農業集団化)その他の大小の類似の社会であれ、ほとんど例外なく壮大な犠牲の祝祭に見えるのは、十分に根拠がある。
「人間関係のなかに媒介形式を置くことで直接的な暴力的衝突をを回避した実践的知恵の意味を洞察できない「計画と統制」論者(ソ連のレーニン=スターリン主義、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、戦前日本の軍事的統制経済などを含む)は、市民生活のなかにある、媒介形式を撤廃するので、人間集団の直接的管理を行なわざるをえないのだ。
(今村仁司『貨幣とは何だろうか』ちくま新書1994年,p.173)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?